Yomoyamabanasi_No2
 

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 #ヤスクニ参拝は、国を貶める
 #小泉さんの“不快感”
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 がんこおやじのボソボソ

  ああ、わたしは、最近かなり“がんこおやじ風”になってきたな〜。
 あまり力みすぎてはいけないのですけれど、やはり“謝罪”はおかしい。
 イラクで人質から解放された3人の苦渋に満ちた声が伝えられてそう思いました。
 私は20年以上アフガニスタンで難民などへの医療従事者件“宣教者”となって働き、結局数年前国外退去となっている方を存じ上げていますが(あくまで、普段からごく親しいというわけではないけれど旧知の知己。)もちろん、あの地域ははじめから「渡航危険区域」と指定されていました。それでも、危険を承知で、志を与えられ、しかも、現地のもっとも弱い人々に手をさしのべていた3人の中でもとりわけ高遠さんは、彼らと同じような志をもってイラクで活動していたのです。
 ところが、国内の世論は反対意見が半数を上回っていたのに、小泉政権は米国隷属のスタイルで憲法違反の海外派兵をおこなったために、イラク人の反感をかうことになり、自衛隊の駐屯をやめてほしいというメッセージの意味で、現地で活動している日本人を拘束し、脅しはじめたということです。
 だから、当事者にとっては、自衛隊の派兵こそ、“はた迷惑”だったはずで、どうして、当事者や家族が謝罪しなければならないのでしょう。
 むしろ、自衛隊のために、高遠さんのような地道な支援活動をしている人々の活動が妨げられ、自衛隊のために、拉致監禁されたことに対して、謝罪の言葉のひとつがあってしかるべきだと思います。ところが日本国内では、立場が完全に倒置しているのであり、これはへんだと思いますね。
 現実には、イラク領事館の職員を殺されている日本政府には、情報収集を含めて、何の手だてもなかったはずであり、あれこれ情報収集はおろか、何の実効性のあるアクションもとれず、手をこまねいていたにすぎません。(それは、解放にかかわった現地聖職者の発言からもうかがわれます。)だから、本音は、時間の引き延ばし作戦で、「外務大臣は、人質が解放されてほしくなかったようだ(現地聖職者の発言)」というのが本音でしょう。
 もし、もしものはなしですが、3人が殺害されるようなことにでもなったとしたら、かねてからの持論が裏付けられたことになり、「自衛隊こそ現地での活動にふさわしい」ということになっていたでしょう。本音は、予想に反して生きてかえってきたんで、悔しいんじゃないでしょうかね。
 だから、家族の謝罪報道にだまされてはいけません。
 自衛隊派兵こそが、憲法からいうともともとの「ルール違反」でしょう。
 ですから、現地のNGO団体などからすると、自衛隊こそがはた迷惑な存在以外のなにものでもないのです。
 中国の、たとえば戦前日本軍が置き去りにした毒ガス兵器で被害を被った人々に対しては、何の謝罪もしていないのに、政府が迷惑をかけた民間人が政治的実権をもっていないと“値踏み”するやいなや、謝罪させるとは、これはもう“説教強盗”のやりかたそのものです。自分が悪いことやっているのを棚にあげて、被害にあった人に対して“こんなめにあわないように普段からきをつけな。まぬけ!”と言っているようなものです。
 ああ、日本に住む普通の“がんこおやじ”の怒りは、なかなか収まりそうにありません。
 だけど、だじゃれクラブの会員証もらったからね。
 これを風刺画みたいにできるようになると一人前なんだろうけどね。
 修行が足りないみたいね。
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小泉さんの“不快感”

 小泉首相は、イラクで人質になって解放された3人の人が「日本に帰っても、またイラクに戻りたい」という趣旨の発言をしたことに対して、不快感を示しました。「これほど迷惑をかけておきながら、人々の迷惑も顧みず、懲りずに戻りたいとは何事か」という趣旨らしいのですが、私は彼らの発言に対してではなく、むしろ首相としての小泉さんの発言に対して、非常に不快感を覚えました。その理由の第一は、人質事件が明らかになって、ただちに「自衛隊は撤退しない」と声明を出した段階で、彼の本音は、“米軍で数百人の犠牲者がすでに出ているのだから、日本人からも死者が出て、それこそ人柱になってもらわないと、申し訳がたたない”というメッセージを発信したのと同じだったと思ったからです。
 物も、金も、そして汗と血も流しているのだと米国に示したくてしょうがないのでしょう。だから、今回釈放されずに、亡くなった場合のメッセージも当然のこと彼は用意していたはずです。それは、いわゆる特攻隊兵士の記念碑の前で小泉さんが数年前に流した涙の意味と重なるでしょう。米国に追従することに問題があるというより、とにかく強いものに対して徹底的に示す“媚び”の強さにおいて、現行政権はきわだっています。それは隷属そのものの卑屈さであり、パートナーシップと呼ばれるべきものではありません。“自衛隊撤退せず”というメッセージに公明党サイドがもっとも敏感に反応して、賛同したのにも、あの集団がもつ、いわゆるニヒリスティックな“み殺し”の冷酷さが本音として読み取れました。
 小泉さんの本音は、本当は生きてかえってほしくなかったのではないでしょうか。解放が長引いたのが、自分の発言のせいだと報じられていることに何の弁明もできなかったので、一矢報いてやりたかったために、つい本音のようなものが出たのでしょう。
 結果として、小泉さんの不快感報道は、日本の家族に対して、彼らを“迷惑をかけた者の家族”ということで、やり玉にあげ、やがては非難して、つるし上げるような気風を応援していることになります。つまり、米国へ媚びと正反対の意味で、ここには、弱い者への態度が示されているのです。相手が弱いとみたら、それそこ徹底してたたき、貶める。それが、現行政権のやりかたです。
 それに、本来は、高遠さんのようにイラク現地の人々や、とりわけ弱い立場にあるストリートチルドレンから慕われるほどの人こそが、“復興支援”の精神をまさに体現した人なのであり、イラクに兵士として派遣された自衛隊にも、むしろこのような精神を期待したい。いや、無理なのはわかっています。テロの攻撃に対してトーチカ(防壁)が築かれた駐屯地には、米国への媚びがみえみえで、もちろん復興のために無益なことしていてはお話にならないとしても、現地に慕われることを目標とすべきであったとしたら、それこそ小泉さんには「これほどのことがあっても、現地支援を願うその志こそが、支援の魂」と言ってほしかったですね。でも、今回の“小泉不快感”発言は、自衛隊派兵の本音を示す重要なサインだったということになるでしょう。
 だから、彼の本音には、イラク“復興支援の心”などひとかけらもないのではないでしょうか。だから、自分の困難を顧みず現地の人々を支援しようとした人を“警告を無視して入った、向こう見ずな輩”としか見えないのでしょうね。
 とにかく、イラクの人がどうであれ、国内の自分の支援者向けと米国むけには、可能な限り非難を浴びないように人が死なないような“支援の実績”をつくりたいということ、しかし、万が一犠牲者が出た場合には、その栄誉を最大限に尊重する用意をしておくこと。それこそが“ヤスクニ参拝”の神髄であり、アジアの人々の叫びをあれぼど無視して、参拝にこだわるのも、その本音からくるのでしょう。
 でももし、「日本人全体が、現行政権の首謀者と同じ考えだ」とみられるとしたら、それこそ、はなはだ迷惑で不快な話しです。もし、アジアやイラクの人々に出会って、仮に友人になるようなことでもあるなら、「私は小泉さんとは違います」と言おうかと思っています。
 私は、人質となって命をねらわれてさえも、「それでもイラクの人を嫌いになれない」と告白した高遠さんの発言こそが、忘れてならない本当の“イラク復興支援”の心そのものなのだと思っています。もちろん彼らを英雄のようにまつりあげるのもどうかと思いますが、その一方で、家族に対して、これ以上“迷惑をかけて、申し訳ない発言”を繰り返させてはいけないのです。

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   ヤスクニ参拝は、国を貶める
  
  福岡地方裁判所が4月7日、「靖国違憲判決」が出されましたが、案の定、小泉さんは一蹴したのです。正義の声がかろうじて上げられたのに、なんとも馬耳東風というか法治国家の原則そのものをあざ笑ったものでした。もちろん、ある程度の予想はあったものの、彼のような政治スタイルを歓迎するようなすさんだ気風が国民の心情の中に増殖してきたようです。
 でも、もし、本気でヤスクニの歴史がわからないというなら、法治国家として、このような人物は首相としての資格は全くないことになるでしょう。なかには熱狂的なファンもいるのかもしれませんがが、かなりの多数は、不本意ながら国民は、とんでもない人に政治をまかせていると思っているに違いありません。本当は。法律を平気で踏みにじり、あざけるような人が決める法律が何であれ、従うことにどんな意味があるのかという議論さえすでに見え始めています。なんという“無法者”にこの国は支配されていることでしょうか。権力の座にすわって、涼しい顔をして、当然のことのよに“ヤスクニ参拝”をすることによって、これまでどれだけ多くの国益が失われてきたことでしょう。私は彼のいう味の愛国主義者ではないけれど、小泉さんのやっているヤスクニ参拝は、愛国精神とは全く別の、破壊的活動だと思います。
 この国の出生率の低さ。自殺率の高さ。そして結婚しない女性の増加。“たばこ”の周辺にみられる倫理観の低さ。そして小泉政権のように、正義に対して何の感性ももたない政治状況。やがて、日本人は世界の潮流から数十年後には埋没するようになり、このままいくと、100年もすると、古代民族のヒッタイトやアズティクのように、完全に消滅することになるでしょう。虚無と厭世的な気風の広がりは、公明党が政権の一角を担い始めてからの世相だと分析する人もいます。もちろん、そればかりではないでしょうけれど、でも、それも多くの要素の一つでしょう。その一方で、歯止めのない増税が厭世的な気分にさらに拍車をかけるでしょう。伊勢速湾干拓を全面中止するとか、高速道路を完全無料にするとか、希望の光が少しでも見えてくればいいんですけれどね。「正義と公義を行なうことは、いけにえにまさって主に喜ばれる。」(箴言21:3) いいかえれば、今小泉さんの対応は、主の心を悲しませ、怒らせていることになるでしょう。
 

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「リベラリズム」ということ
 「リベラリズム」もしくは“リベラル”という言葉に馴染んだのは、かなり以前からだと思います。伝統的聖書観(私は神学的には、“リベラル”をウォーフィールドが理解している意味で使っています)に対して、ドイツの聖書批評学やカールバルト神学、内村鑑三に端を発する「無教会系」の学徒の一派にみられるいわゆる“現代化(現代人の理解を助けるためといいながら、結果として聖書の使信を相対化させる)”の動きについて、リベラルというときには、強いていえば保守的聖書観からすると“蔑称”に近い用語でしょう。たとえば、現代化したと自称しているサイドからすると、ファンダメンタリズムというラベリングは即嘲笑の対象だということになり、いわば、“リベラル”はその逆サイドにある用語です。
 保守的神学校では、ともすると「リベラル」というレッテルが貼られるだけで、中身の検討もなく、遺棄されるような対象にもなりえたので、「神学なんぞはいらない。聖書!聖書!聖書があれば十分」と、実は聖書そのものもあまり勉強していないのに、浅学の隠れ蓑だったり、ただ単純に相手を裁くために使われたりもしました。
 近代日本では、いわゆるカルビン派の流れをくむと“自称”している教派がバルト神学などの影響下にあって伝統的聖書観からリベラル化していったという経緯があるために、驚くべきことに「カルビン」=「リベラル」=「カルビン系の本を読んでもみてもいけない」というとんでもない縛りが神学生にかけられたという事例があります。事実“勉強のしすぎでリベラルになる”とか「博学があなたを狂わせている」とフェストがパウロに対して言ったみたいに、リベラルと“学問の緻密さ”や“神学”をさえ結びつけることさえみられました。(真面目に神学を考える立場を擁護するために、あえていいますが、勉強のしすぎで伝統的聖書観から離反するのではありません。むしろ、その逆です。近代化の誘い水に導かれて、やがて毒水を飲まされることになるような、ある種の自己満足からくる内省の不徹底さや、体験中心のアプローチが慢性化して、聖書が体系的な知識であることを軽視するところからリベラル神学が生み出されます。つまり、あまり勉強していないので、木を見て森を見ないようなリベラリズムの迷い森に入っていくのです。それに、カルビン=リベラルと思っている方があったとしたら、それは全く誤解です。「キリスト教綱要」は、学校文化とメディアの影響で理解力が落ちた現代人にとってはきわめて読みにくいと思いますけれど、直接「綱要」を読んでいただけると、彼がいかに聖書的であったかそして、いかに“霊的”であったかがわかります。)
  ただし、私がここでこだわっているのは、聖書観における“リベラル”ではなく、政治におけるリベラリズムという観点です。つまり、聖書を唯一の基準としているのであれば、政治の分野でも聖書を基準とた法制定さえおこなわれるべきだという考え方があります。近代の法体系には、源流に聖書があるのだという考え方とは別に、もっと、モーセ律法を基準に、たとえば死刑などの罰則規定を強化すべきだという、現代国家が正義の規範から離反している点を指摘した立場があります。これは今日のイスラム法が、単一宗教だけを公認しているのに似てるとはいえませんが、それに近い立場を容認する道を用意していることを意味します。
 それに対して自由主義とは、たとえば、ある国に複数の思想や信条が存在してもいい、たとえ反キリストの思想でも、存在することそのものを法的処置として許されないとはしないという多元主義という立場がこれまで自由主義圏が維持されるための大前提なのでした。明確に反キリストを言っているような宗教団体、(たとえば創価学会など)も、思想信条の自由を保証した憲法がこの国に存在しているかぎり、存続が許されるのです。たとえば歴史が“日本の勝利”で終わっていたとしたら、当時近隣アジア諸国でおこなっていたように、米国に対しても、天皇賛美の思想統制、各地で神社の強制的設置、キリスト教を含めて宮城遙拝を受け入れないどんな思想も宗教に対しても、弾圧していったことでしょう。これはリベラルな立場とまっこう対立する、一元化の恐怖でした。現代の北朝鮮がリベラリズムと対峙する体制にたっているので、わかりやすいでしょう。
 つまり、聖書的価値観を明確にすればするほど、政治的な自由(リベラル化)を推進することになります。政治リベラルについては、ピューリタンの中にも議論があって、(もちろん政教分離原則として、すでに法的には決着をみているとはいえ、今も議論が継続しているとことではあります。)
 わたしは、国家の中に、自由と権利の思想を維持することは、キリスト者の立場だと思います。ですから、国家のために個人の自由や権利が制限されても当然といった小泉現政権の動きには警戒感を強くもちます。もちろん、現政権にとって、一元化とは天皇主権の復興でしょう。
 もっとも、近代政治思想は、複雑で、ちょうどイスラム圏が単一宗教以外に対して、法律的処置を含めて完全に閉め出しているのに似て、米国のキリスト教右派と呼ばれる勢力には、聖書的な立場への一元化論がなくもありませんでした。それは、思想信条の法的自由は認めるものの、反キリスト教の働きに対しては制限できるという政治思想でした。イスラムでのキリスト教が、存在は許されているものの、イスラムに対して脅威を与えるような伝道活動をしてはいけないとされているのに類比した考え方です。結局、米国ではこの動きへの批判は今でも根強いという反面、たとえばオウム真理教のような破壊活動や大量殺戮を肯定するような新宗教に対して、法的制限がかけれられて「自由」がうばわれることはやむおえないと思われてきました。つまり、自由は守らなければならないが、自由にも限度があるという考え方です。しかし、このての自由制限論にはいつも“拡大解釈”という難問がつきまといます。法的制限の基準は、たとえば時の為政者によっていくらでも融通無碍な尺度にされてしまう危険性と隣り合わせで、仮に為政者が「ホームスクーリングは虐待にあたる」などというとんでもないことをいい始めると、その場面での学校への一元化は、北朝鮮のむこうをはったような思想統制(現代にも“引き出しやさん”周辺にはこの傾向はすでに見られる)を生み出しかねないでしょう。そんな一元化や「自由主義」への反動がこないように、願い祈ります。いえ、この国は、教育においてもっとリベラル化し、多元化して、それぞれのファミリーや子どもにあった制度選択できるようにならなければ明日がないというのが、私が今達しているところです。

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“真珠の首飾り”

 日本国憲法制定には、様々な苦労話が織り込まれています。
  そんなことを言うと、敗戦のなか米国主導でできた「棚からぼた餅憲法」なのであって、戦勝国が敗戦国に対して「押しつけた」ので欠陥憲法だとかいわれそうです。いわゆる“自主憲法制定運動”という声が説得力を帯びてしまうことになるでしょう。事前に憲法の歴史などの背景など知らずに、ただ「自主憲法」などというと、なにか大人びた、「わきまえ」があるかのような語感がありますが、実態としては、天皇を神格化していた戦前の体制への憧れをしたたかにもっている勢力が、今もゾンビみたいに生息し、発信しているバイアスのかかった情報なのであって、“押しつけ論”をいわばテコにして、戦前戦中のような教育勅語を復活させ、軍政回帰したがる人々が隠れ蓑みたいにつかっているのが「自主憲法制定運動」の内幕の核心部分なのだということはふまえておきたいのです。
 私が日本国憲法に関心を寄せたのは、教科書に載っていながら授業では全く割愛された近代史を学びたかったからです。でも、いつから近代史を学ぶ必要性を最も強く意識したかというと、それは、1973年にさかのぼります。
 1973年冬。IVCF(Interversity Christian Fellowship)の学生宣教大会がフィリピン・バギオ市で開催され、参加者の一人でした。その機会に、戦中バギオ市に日本軍によって設置された捕虜収容所が存在していたことを知らされた時からでした。そして、後日あらためて、著者がその収容所での捕虜体験を動機に据えて、綿密な第一資料の裏付けをもって記されたバーガミニの「Conspiracy of Emperor」(邦訳あり)を読んだ時からです。
 もちろん、言うまでもありませんが、それに加えて小林正樹監督による、膨大なGHQフィルムを基礎にして再構成されたあのドキュメンタリー映画作品「東京裁判」(「極東国際軍事裁判」一般的通称としては"東京裁判"と呼ばれる)も、憲法制定を知る背景である「昭和史とは何であったか」をひもとく鍵になったのかもしれないと思います。しかし、“鍵”という言葉は、実態にはふさわしくないかもしれません。東京裁判さえも、一つのバイアスのかかった歴史観を示しているともだといえるからです。つまり、“敗者が勝者を裁けるのか”を問うて、被告人全員の無罪を主張したインドのパル判事の主張に同調する立場によれば、そこに戦勝国の奢り、もしくは、逆説的ですが、天皇の免責の経緯を含めて勝国の“陰謀”すら秘められているかもしれないと疑われるからです。それが、731部隊の生体実験の“成果”など、史実的にも、今日の薬害エイズを生んだ戦後医療体制の根幹にかかわる出発点だったことも見逃せません。
 このように敗戦という特殊な事情をひっさげた「日本国憲法」ですが、私はいわゆる“天皇条項”以外について、とりわけ国際紛争を解決するための手段としての戦争を全面的に放棄した第9条をもつ現行の日本国憲法は非常によくできていると思います。旧来の戦争観に主流だった「敵と味方の概念」を全く覆す核戦争のような事態を想定した、新しい戦争観と非常によく調和していると思われるからです。
 それでも“押しつけ”と誤認されてもおかしくないように、憲法が生み出される経過には、GHQ側が深くかかわっていたことは確かです。かつて、現代の北朝鮮をおもわせるような戦前戦中の天皇の絶対支配をふまえた軍事態勢によって、どれだけアジア諸国はじめ自国の個人の権利や思想信条の自由が厳しく制限されていたのか、その史実をほんの一瞥するだけでも、たとえ、一部に欠陥を含んでいたとしても戦後に国民が獲得している自由や権利の基礎中の基礎に、GHQ主導が色濃く縫い込められたような日本国憲法制定史があったことは疑いようがありません。
 日本国憲法制定の具体的なアクションとしては、GHQの総司令官マッカーサーが、幣原首相に「憲法の自由主義化」(憲法改正)を要求したことにはじまります。ところが、民主化への抵抗は想像以上に強く、旧体制への憧憬に留まらず、天皇主権の維持は、文字通りの意味で洗脳によって練り込まれたに等しかったのでした。それで、GHQの顔色をうかがうように粉飾されてはいたものの「憲法問題調査委員会私案」は、毎日新聞がスクープした記事として周知のこととなり、つまりは、骨子として旧体制をそのまま引き継いだような内容だったのでした。マッカーサーはその内容のあまりの稚拙さと変化のなさに、激怒・失望し、いわゆる「マッカーサーの3原則」を生かした草案づくりを25名の民政局員に極秘指令したのでした。
 “真珠の首飾り”とはこの時の極秘プロジェクトの暗号名。劇作家のジェームズ三木さんが、この時の経過をリアルな演劇として再生し、すばらしい舞台劇に仕上げていて、このは前掲の本とビデオにあわせて、憲法制定史を学ぶ教材としていただけると思います。興味のある方や、ホームスクーリングをしながら、日本の近代史に関心を寄せておられる方(子どもでもわかりやすい)は、ぜひご覧になってみてください!
 舞台劇“真珠の首飾り”は、本当によくできた日本史の学習教材として、HARU-SAN(^-^)/~的には、かなりお勧めです。
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  「判断のニュートラル化」製造装置
 HSLDAのクリッカさんが「The right to homeschool A Guide to the law on parents' Right in Education」の中で、教育行政のことを [neutral decisiton maker]と表現していたのが興味深い表現でした。つまり、行政の教育部門は法律上は“公共の福祉”の一環なのであり、教育とはいえ、個々の多様性にあわせたプログラムではなく、「最大多数の最大公約数的なるもの」をいつも指標としているために、特定の宗教教育(もちろん聖書教育も含めて)と対立するのです。ですから、本来は、教育行政下にある「学校」は、宗教教育と馴染まないどころか、本質的な対立を生み出して当然な筈なのです。実情は、曖昧模糊とした妥協のもとにあって、クリスチャン家庭は、学校に子どもを委ねてしまうことで、信仰継承に完全に失敗する道を選択してきました。仮に、そうさせまいと、ミッションスクールへの道を行ったとしても、何よりも聖書信仰からの離脱によるリベラル化によって文字通り聖書を信じることができなくなってしまい、“ミッションでかえって信仰を失う”という悲しい事態も後を絶ちませんでした。教育の目標設定の前提として“中間”を持ち込むことは、聖書信仰からの離脱を意味すると自覚しなければなりません。
 しかし、教育に“中間”はありません。
  たてまえとしての“教育の中立”の内実は、オブラートに包まれて抵抗感なく飲み込まれた劇薬が、やがて体内で徐々に効力を発揮するのに似て、後で効果がみられることになるのです。
 では、“教育の中立の内実”とは何でしょうか。
 教育行政からみると、たてまえと違い、行政は宗教的判断を完全に放棄しているのではありません。いいかえれば、宗教教育は“家庭に委ねる”という明確なスタンスをとっているわけではないのです。かえて、家庭環境すら、学校行政のヒエラルキーのもとに位置づけられ、「学校支援という役割を果たす限りにおいて、自律的である」ことに甘んじなければならない一方で、“不登校・ひきこもり撲滅キャンペーン”をみると、日本のような学校の縛りの強さは、国際社会では共産圏やイスラム圏以外には、みられない日本特有のものだと思います。それが、世界人権宣言条文に明らかに違反なのです。「ひきこもり」周辺では、学校がまるで収容所のように機能しているのです。あの“引き出し屋”のものの言い方は、ナチ時代のドイツ・秘密警察ゲシュタポの言動とどこが違うのでしょうか。
 たてまえは、“中立”であっても、実質的に、学校の実態はあきらかに自由主義社会のものではありません。
 視点をかえれば、憲法の上で信教の自由が保障されているのだから、家庭がその信条に従い、ホームスクーリングという形態で宗教教育をおこなうことを認めさせなければならないのです。たてまえとしては、国家はどんな宗教教育にも携わってはならないことになっています。そこで、クリスチャンが直面する問題は、最初は、子どもがそのような宗教的判断とは切り離された“中間的判断”を指南されることになることです。このような中間的判断が、あたかも知的に優れたような印象を刷り込まれてしまうことが問題です。“中間”判断によって、キリスト信仰は相対化され、公共性を装った新しい国家主義という新宗教が注入されるとき、教育ニュートラルは実は偽装であり、いつでもあの国家による“洗脳”が再浮上してくるのでした。
 これは「宗教のことは、若い頃に刷り込まれないほうがいい。もっと年齢を経て、自分で判断ができるようになってからのほうがいい」(ある高校用国語教科書に掲載された文)という発言の背景となります。しかし、日本では「象徴天皇制」の名のものとに、精神的な面まで天皇支配が入り込み、最近の教育基本法改正(実は改悪)キャンペーンのように、愛国心や公徳心の名のもとに、天皇を元首として復活させようとしているため、さながら学校教育の中では、子どもたちがかつての“皇国史観”に曝されるようになるのです。いわゆる国家主義は、実質的な宗教教育といっていいでしょう。つまり、日本で国家神道は消失した筈なのに、学校現場では、すでに憲法でいわれている意味の教育の自由はないのです。反聖書教育は、進化論ばかりではありません。
 ですから、もし今の憲法下でもミッションスクールの存在が信教の自由の枠内で存在をゆるされているとすれば、教育の自由と思想信条の自由が詠われている国で、聖書教育つまり、クリスチャンがホームスクーリングをおこなうことに、何の妨げもおかれてはならないと思うのです。それは、オウム真理教を含めた戦後のある新宗教がめざしてきたような国家による特定の宗教教育の絶対化ではなく、教育行政による教育政策の多様化と、親の自然権としての教育の自由化をめざすものでなければなりません。
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 悲しい“しあわせ”

 
 元ハンセン病患者の宿泊をあるホテルが拒否し、結局和解ということで決着しましたが、同胞日本人の内面に潜む陰鬱な影の部分が、明るみに出されることになりました。
 政府筋も巻き込んで社会問題になったホテルは、場当たり的な謝罪を繰り返しながらも、今回の行動の基本となる考え方を変えませんでしたので、地元の旅館共同組合から除名処分にされました。
 この経過は当然だと思います。厳しい判断と、厳しい処置がなされるのは当然だとしても、私は、このホテルで働いているであろう多くの従業員の方々にとって、この事件が何であったのかを考えます。
 サービスという美名のもとに癒やしがたい差別観念を自覚できないのは、総支配人はじめトップの数人に違いないでしょう。しかし、もし、ホテルの差別的行動や発言に違和感をもっている従業員がいたとしても、彼らは反論の場一つ与えられないもどかしさをもってたはずです。
 ところが、ホテルに対してむけられる社会からの視線が厳しくなると、ひたすら“とばっちりを”受ける立場になるのは、パート労働者など他でもない従業員の一人一人ということになると想像します。
 おそらくこの事件以降、ホテル経営は厳しい局面をむかえるでしょうけれど、仮に経営不振にでもなれば、それよってパートの方々などは真っ先に人員整理の対象にされるに違いないのです。これはひどく悲しいと思います。
 しかも、「〜ホテルで働いていた」ことすら、元ハンセン病患者とは別の、新しい差別構造の餌食にされてしまうとなると、何とも切ないことかと思います。
 これは、想像しすぎなのかもしれません。
 いつも最も弱い立場にある人々のことに思いを寄せる想像力の訓練をしていなければなりません。そうでなければ、民主主義や平等と正義といったことを金科玉条にしていた共産主義国家が、やがて官僚機構の肥大化によって徹底した差別構造と独裁を生みだしていったように、差別への敵対心が、かえって逆に別の新しい差別構造を産むことになるでしょう。
 “他人が自分よりあきらかに不幸な状態にある”と認識できる時だけしか、自分の“しあわせ感”を実感できないとう空気が蔓延しているのでしょう。そのような幸福感しかもちあわせていないところに、本当のしあわせは絶対に来ません。「どんな平等なのか」が問われるのでしょう。ねたみや嫉みを原動力として生み出される強制的「平等」が差別を生み出す構造の根幹となることは希ではありません。やはり根は、外ではなく、聖書の言うように、人の心の中に深く横たわる原罪から生まれてくるからです。
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学校拒否は病気ではない
 
 学校拒否は、病気ではありません。
 子どもが学校に行かなくなったとき、子どもが学校に行かなくなったというだけで、子どもを病気扱いするのは、病気扱いする側に何かの問題があるのであって、拒否反応そのものは、たとえば異物感があったらはき出せるとか、熱が出て休息しなければならないとか、むしろ健全反応なのではないでしょうか。その意味では、学校に何か問題を感じて、学校を拒否することは、生体反応としては、子どもがきわめて健康な証拠なのだと思います。
 けれども、正常な状態なのに、それを“異常”といわれ続けるだけで、生まれる新しい別の病気があります。“嘘も百ペン言われたら、本当になる”といわれているでしょう。実際に、向精神医薬による副作用の数々によって、本物の別の病気が生み出されることになりましたし、悲しいことに、学校に行かない理由を“病気”以外に見いだせない親御さんにとっては、何らかの“病名”や障碍名だけがこの社会で生息できる道と思われました。「うちの子どもは、〜という病気(もしくは障碍)なので学校にいけないのです」といううちの何パーセントかは、もしかしたら、本当に文字通りの意味なのかもしれませんが、私は大多数の例は、1990年代における国家の教育戦略による情報操作によって生み出された結果なのだと思います。
 学校に行くことを絶対視しない米国では、「不登校」とか「登校拒否」という言葉すら存在しません。いえ、登校拒否の受け皿といわれる“フリースクール”さえ使われている意味が全く違います。当然、学校と不登校の子どもとの間をとりもつと言われる“スクールソーシャルワーカー”さえ、欧米では、日本とは反対にホームスクーリングに監視的な役割を果たすといわれています。 
 最初は気持ちよく鍋の中で、泳いでいても、やがて煮え鍋の中で死んでいく「鍋の中のかえる」のように、最終局面を迎えるまで学校文化にどっぷり浸かって無感覚なままで過ごすことが、どれだけ異常で危険なことでしょうか。ところが学校の“不登校対策”には、健全な反応を受け入れないような異常な考え方に支配されているために、ことさら“不登校”に関しては、異常行動、いえそれどころか“病理的な異常”とみなす傾向がいまだに存在します。つまり、前提となっている考え方は、「学校は完全に無罪」なのです。このために、かえって拒否行動に走るような子どもやそのような子どもを生み出す家庭環境が一方的に“やりだま”にあげられてきました。
 私はこれはおかしいと思います。
 しかし、文部科学省の「不登校撲滅キャンペーン」は、それぞれの学校に削減目標を設定させ、出来不出来の評価さえ加えることになっているので、子どもたちばかりでなく、現場のとりわけ良心的な教師にとって、行政からのプレッシャーと、子ども側の実態認識の間に板挟みにさせられることで、精神的に病む教師が増加しているのです。
 「学校に行かない子どもは病気だ」というプロパガンダを生み出すような、「社会的偶像」の位置にまで学校が上り詰めたのは、いつからなのでしょうか。
 おそらく軍国色の強い時代に生まれた「国民学校」あたりからでしょう。それまでは「大切な子どもの労働力を学校にとられてなるものか」という反対運動さえあったのであり、そこまでいかなくても、学校そのものさえ、義務的にはとらえられていませんでした。戦後体制になったのに、学校に行かない子どもを病的な扱いにするような気風が残ったのでしょうか。こと、教育に関しては、「自由」を拒否し続けて、戦前体質が温存されたのでした。
 
 学校に行かないことは、むしろ、悪いことばかりではありません。学校に子どもがいかないことは「病気ではない」という面ばかりではなく、同世代から受ける悪影響や、社会的未熟な教師の影響、キリスト者であればなおさら、唯物主義的な人生観世界観(コミニストという意味ではなく)から卒業できない教師の悪影響を受けずに済んだことになるので、むしろ、学校に行かなかったことで、守られていたのだといえるのではないでしょうか。
 むしろ、心の傷を癒されないまま、“登校拒否”という臨時の待避処置さえ見いだせない子どもが、“健康な子ども”に属する子どもたちの中に少なからずいることが気がかりです。
 私は登校拒否は、全く病気ではないと思います。むしろ林竹二氏のあの古典的な“学校は、水俣の海になってしまった”という指摘に待つまでもなく、学校と、学校文化が根から病んでいるのです。
 ペーパー処理能力中心のひからびた学習観を捨てきれず、有効な対策を打ち出せないまま、官僚組織や利害関係のなかで硬直化し、いつまでたっても子どもに拒否されるような環境を維持しつづけている学校が、不治の病に冒されているのです。

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クリスチャンと政治

 「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」
 (第一テモテ2:1〜3)

 政教分離原則の歴史の根幹には、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」という主のみことばがある。世俗権力と「宗教」とを区別する立場は、世俗権力が宗教弾圧の傾向をもつことや、自己絶対化することから、主の教えを守るために先陣たちによって勝ち取られてきた制度だといえる。一方で、俗権力に対して教会がいわゆる「警告灯」として、祈りや投票行動、時に議員に選出されるなどで役割を果たすことは求められている。教会が「剣」と結びつくことを容認すべきではない。政治と教会が結びつくことにはろくな顛末がなかったことは歴史上に証明されている。(“ミッション”という映画が、そのことを如実に示していると思う。)ただし、王であれ、民主的手法によって選ばれた権力者であれ、彼らが徹底的に主を恐れ、主に仕えるという道はある。もし、本当のキリスト者である者が俗的権力につくことがあるなら、それは政治システムとしての政教一致ではなく、福音があらゆる領域に浸透した結果であるべきだと思う。
 主は時に、クロス王をユダヤ復興のために用いられるように俗権さえご計画の中に組み込まれるだろう。それで、Dマッカーサーを含めてキリスト者で占められていたGHQ首脳は「天皇に聖書を読ませる」ことを考えたので、皇位後継者である皇太子の家庭教師として、クエーカー教徒である平和主義者ヴァイニングをつけさせた。かつて神とさえいわれた人物が、キリストを受け入れたなら、この国は易々とキリスト教化されるだろうとみた。部落の首長がキリスト信徒になると部落全体が回心するのが当時の宣教理論だったからだ。しかし、そのもくろみは、みごとにはぐらかされ、実質失敗したといっていい。祭政一致を根幹にしている国家神道は形式上は終焉したものの、平和主義(憲法9条)や政教分離原則でやっとガードされているだけで、ヤスクニ参拝など、天皇と国会の抜き差しならぬ関係として、実質的な“偶像礼拝”が国家権力結びつきつく部分が憲法の上も残されてしまった。偶像礼拝を公然と認める国だから国民はいつまでも幸せになれない。だから、この国にもし軍隊が復活したら、それは間違いもなく過去にみた“皇軍”であろう。それが現行小泉政権のもと着々と復活させられようとしている。だから、ホームスクーラーであろうとなかろうと天皇制問題は必ず取り組まなければならない課題だと思う。
 一方で、公明党の一糸乱れぬ政治行動が不気味である。この組織内部に政治判断の自由はない。政教一致を指向する宗教団体がすで政権の一翼を担う存在としてこの国にすでにあるのだ。額面はどうあれ、本質的には、この組織のめざすところはイスラムと同じように、創価王国(非信徒の宗教活動が制限される国)なのであり、オウムとかわらない。オウムの政治行動も、創価学会の政治戦略をまねたものだったことはあきらかだからだ。浅原が“平和”“福祉”“教育”をテーマに街頭演説していた時期がったのは記憶に新しい。それに、ヤスクニにかかわるキリスト者が、強烈な“学校・学歴信仰”にとらわれているのはなぜだろう。不思議でならない。彼らこそ、学校教育が、天皇制教育による国家の教育戦略の牙城であると知るべき人々なのだけれど。
 私はキリスト者が政治に無関心であったり、投票など政治行動に対して冷淡なのは罪だと思う。それは隣人愛がないのと同じだと思うからだ。いつも思うのだが、民主主義が、神主主義ではないゆえに、聖書と反するとみなすは何とも稚拙な議論だと思う。「終末の時代なのだから、宣教活動に専念すべきなのであり、選挙行動など俗事は、滅び行く異教徒にまかせておけ」というのも、聖書に従っているようにみえて、実は全然聖書的ではない。選挙が日曜日にあるのも、やはり西欧諸国に比べても異常だけれど、でも不在者投票もあるのだしね。
 確かに「民主」の名のもとに、皮肉なことに思想弾圧を旨とする共産主義さえ跋扈できたけれど、俗権が偶像化して国全体が滅びにむかわないようにするために“民主主義”というシステムを育ててきたのは、他でもないキリスト者ではなかったか。
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民主党へのメール&返事

以下、私から民主党にあてて送らせていただいたメールです。
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《ホームスクーリングへのご理解を》

東京都日野市民の吉井春人です。

 今度の総選挙で、民主党を中心とした政権交代がなされるように、切望し、強く期待している者の一人です。
 さて、私は、日本でのホームスクーリング運動を支援してきました。 ホームスクーリングを紹介した私個人のウエッブサイトがあります。http://gratias.cube-web.net/

 米国では、ホームスクーリングは市民権を得て久しいのですが、日本では、まだ知る人ぞ知るの草の根運動です。しかし、親が教育についての責任をもっと自覚して、ホームスクーリングを含めた、子どもにあったさまざまな教育手段を選択できる社会が、学校行政に新しい市民社会の風を送るためにも、必要ではないかと存じます。ぜひ、貴民主党においても、ホームスクーリングを含めたオルタナティブな教育への支援を政策目標に掲げていただけるなら幸いです。
 また、お役にたてることがありましたら、お力になりたいと願っています。

 吉井春人
 〒1910043 東京都日野市平山6-25-11
 042-594-1569

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以下のようなお返事をいただきました。
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 過日、民主党あてご意見をお寄せいただき、ありがとうございました。
いただいたメールは担当者等に転送させていただいております。
なお、大変光栄なことに、有権者のみなさまからのご意見が殺到し
こちらの対応体制が整っていなかったこともあって、
ご返信すら大幅に遅れてしまいました。
心からお詫び申し上げます。
今後ともご指導のほど、よろしくお願い申し上げます。
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 民主党広報・宣伝委員会 メール係
  〒100-0014 東京都千代田区永田町1-11-1
  電話 03-3595-9988
  Fax  03-3595-9922
  E-mail info@dpj.or.jp URL http://www.dpj.or.jp
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たばこ訴訟 

  裁判所の判断が、そのままこの国の常識になるのではない。
 時には、裁判官の社会性が著しく遅滞していて、常識はずれの判決になることさえある。学歴の高さだけで着任したのではないかと疑われる。昨今のたばこ訴訟は、愛煙家たちが、その嗜好に伴う危険性を知らせなかった責任を問うてJTを訴えた。

 この判決の問題の第一は、タバコの危険性の認識の甘さ。
 下された判決には「禁煙・喫煙は、本人の意思でどうにでもなる」とあり、危険を承知の上で病気になるまでタバコを続けたのは、タバコを嗜好品として選んだ側に責任があるのであり、製造した側には責任がないとした。この判決は、被告のJT側が「喫煙が、がんを引き起こすかどうかは解明されていない。依存性も酒に比べ問題にならないほど弱い。古くから伝えられてきた一定のリスクを承知で喫煙した以上、賠償責任はない」といってきたことを踏んだものだ。言葉の揚げ足をとるわけではないが、“古くから伝えられてきた一定のリスク”に対して、タバコの被害はむしろこれまで知られてこなかっただけで、甚大なものであることが次々の明らかにされてきている。タバコの危険性は、近年になってますます明確になってきているということだ。
 性教育で日本でも知られるようになったカナダのメグ・ヒックリングさん(この方はカナダの福音派系教会に所属するキリスト者である。)によれば、不妊症やインポテンツ・さらには精子数減少を引き起こす環境ホルモンとして、タバコの煙が作用するという。まさに、民族の存亡にかかわる問題という認識をなさっていた。当然、カナダのタバコ・パッケージには、「毒物であること」「幼児死亡率の増加との因果関係」「脳卒中」「肺癌」「歯槽膿漏」「気管支炎」「心臓への被害」「煙にシアン化水素が含まれている」などなど、でも、「ここまで危険なら、どうして販売されているのか」疑問に思うくらいだ。
 第二には、すでに施行されている健康増進法のねらいが、全く考慮されていないということ。
 タバコが嗜好品であるという認識はすでにこの社会では通用しない。健康増進法によって、すでに社会全体が喫煙の危険性を一層深刻に認識しているというのに、裁判所はここにきて“反社会的判断”をした。かえって、これによって法曹(ほうそう)社会の実態があぶり出さるのがいいかもしれない。このように、裁判所の判断が、現実に施行されている法や通念と乖離(かいり)したり、矛盾したりすることは、この国が法治国家であるゆえに、いいことではない。
 第三には、原告の「公共心」を踏みにじることになったこと。喫煙は、麻薬と同じように依存性が高い。その被害は、人体ばかりでなく、家全体間接喫煙を受ける周辺環境の隅々にまで及ぶ。煙は、やっかいなことに、人体組織の細部にまで入り込み、脳組織の深部まで浸潤(しんじゅん)する。そしてじつに、かの裁判官の判断まで…。と言いたくなってくる。それゆえに、このような、愛のない判決が生まれたのだろうと訝しくおもう。判決には、自分の嗜好の結果、予想されていた病気になったのは自業自得だとも言いたげだ。
 でも、訴えた人々は文字通りの意味で健全な意味の公共心から「せめて自分の子どもや孫には、このような運命に会わせたくない」と悲痛な叫びを訴えておられるのではないだろうか。しかも、原告のねらいは、自分の子孫のためだけではない。タバコの危険性を自らが体験したものが切実で悲痛な叫びを、私利や私情を越えて訴えておられるからだ。
 近所に開店した中華レストランの“バーミヤン”には、禁煙席が喫煙席の2倍あって、いつも満席に近い。今後、全面喫煙席のレストランに人気が集まるだろうと思う。個人経営でも、全面禁煙にしているラーメン店には、子どもや親子連れなど、人が集まる時代になっているのだと思う。
 でも、ラーメンファンとしては、残念なことに、全面禁煙(もしくは分煙)のラーメン屋さんは、まだ数えるほどしかない。
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   戦後処理は終わらない
  

 チチハル問題での“3億円”には、現政権の体質が典型的に浮かび上がっているようで興味深い。
 中国チチハルに、旧日本軍が敗戦直後に投棄した毒ガス系爆弾によって、多数の中国人が負傷し、亡くなった人もいる。訴訟では、東京地裁敗訴だったものの、現行小泉現政権は、これを不服として高等裁判所に上訴した。
 小泉さんは国内問題であったいわゆる《ハンセン訴訟》では上訴しなかったにもかかわらず、外国でおこなった過去の犯罪行為については、謝罪もしないし保障もしない。おりしもイラク復興問題では、5500億円以上もの拠出を決めたにもかかわらず、このような対応に、多くの中国人は納得せず、異議申し立てがあったことは想像に難くない。
 これによって、弱いものを守るようにみえたことでさえ、小泉さんにとっては《パフォーマンス》に過ぎないことが確認されよう。
 「3億円を支払うことで、中国側と合意」とあるが、中国側は「保障とは受け止めていない」のに、なぜ“合意”なのだろうか。つまり、強いものに媚びて、弱いものに対して冷酷な性格を、順法を隠れ蓑にして覆い隠していて、本当は“びた銭一も出したくない”のが本音だということだ。中国人・ちゃんころ(ある官僚は、戦時下で使われた“ちゃんころ”という蔑称をいまでも隠語として使っている)には一円も出したくない。けれど、あまりにも世論の批判が収まらないので、しぶしぶ1億円出した。「ちゃんころは、うるさくてしょうがない。そんなにガチャガチャ言うならこれでもくれてやるから、これもってとっとと帰んな」みたいな対応をした。湾岸戦争の時は、米国に言われてからだったので、政府すじは、選挙前の批判をかわすために、米国大統領が来る数日前に自発的に5500億もの“イラク復興支援金”拠出を、実際にどう使われるかは別の問題として、とにかく決めた。このニュースには、東南アジア諸国への蔑視、とりわけ中国人への蔑視の性格が強烈にあぶり出されている。この対応を巡って、私は、同国人として非常に恥ずかしくもあり、また申し訳ないという罪責感を払拭することは到底できない。
 戦争末期であったとしても、毒ガス兵器遺棄は犯罪行為だと思う。日本政府としては、もし、チチハルに本気で取り組むことになれば、731部隊の生体実験問題を含めて、補償額があまりに膨大になり、数千億円で済まなくなると読んでいるのだろうか。
 最初1億円を出すといったのに、中国側はそれに同意しなかった。そこで、日本政府は、これもしぶしぶ三倍にした。「とにかくうるさいから、これで勘弁してくれ」というわけだね。もちろん、上訴によって、拳を振り上げているのは事実なのであり、本音では一円も出したくない。まして謝罪など日本政府にとっては、絵空事にしか過ぎないのだろう。
 中国側は、日本政府の対応を無理矢理“合意”と報じられたことに、納得しなかった。けれども、そのお金を受け取らなければならないほどに、被害者の実情は逼迫しているのだと思う。ただし、日本政府筋は、これが事後処理の事業のために使われるべきであり、個人補償ではないと明言している。つまり、毒ガス弾被害者に対して、政府には何のケア感覚のかけらも存在しないのであり、旧日本軍の犯罪行為によって被害を受けた方々は、傷を受けたまま遺棄されているようなものだからだ。
 ニュースに関心があるクリスチャンにとって、(いや、クリスチャンばかりではないが)この出来事は、とりわけ悲しいニュースだ。それは、このような「強きに媚びて、弱きをいじめる」政権にたいして、創造主である神がどのような意志を持っておられるかを旧約聖書を通じて知っているからである。創造主なる神は、このような政治に対して、きわめて厳しい。「政権末期症状」なら、いいのだが…。もしかしたら、選挙を経ても変わらないのではないかという悪夢が脳裏をよぎる。勝手に滅びてくれるならいいのだが、それでも、国民が巻き添えをくうのはいやだね。
 それでも、これから、たとえ一時勝利を得たように見えても、このようなやり方が滅びを招く“末期”であることには変わらない。公明党主導のもと、自民党を中心とした現行政権は“商品券”を配った。それ以来、日本の若者たちから、労働意欲が削がれはじめた。イラク戦争の戦後処理を巡る、中国と米国に対する対応の違いによって、実に、公然と“いじめ”が追認されたようなものだ。でも、希望は捨てない。いや、決して捨てるべきでない。
 それでも、何と不幸な国なんだろうかといつも思う。
 
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児童虐待とホームスクーリング

 ホームスクーリング法律養護協会からのメール(2003.10.15)から、紹介します。
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  親愛なるHSLDAメンバーおよび友の皆様
 CBSの全国ニュースによると、昨夜「ホームスクーリングの暗黒」という否定的なタイトルのテロップからはじめて、ある報告書のことを報道しましました。その報告書は、ホームスクーリングと称する家族を含めて、過去10年あまりの児童虐待の事例に注目させています。報告書の実例によると、ブランドン(14歳)の自殺と、ウォレン(19歳)による殺人事件について論じています。ウォレン家はノースカロライナ州出身でした。児童相談所は、家族と11回の連絡をとっていて、家族の状況を把握していて、家族を支援してきたといいます。しかしながら、私達は、第3者からみると、この報告書に書かれたことがホームスクーリングと児童虐待とが同等であって、規制する必要があるかのような誤った結論を引き出そうといしてることに憤慨を覚えます。報告書の意図は、ホームスクーラーのコミニティーを混乱に陥れ、行政によるホームスクーラーへの規制を促進させるために意図的に歪曲された物語を流すことにあるのだといえます。
 CBSの親会社であるバイアコムや、CBSに直接電話などで抗議しましょう。報告書は、子どもの死亡事故の原因究明というより、ホームスクーリングに対する報道機関を利用したバイアスのかかった悪質な中傷作戦の一環だということ。あわせて、CBSが報道機関として、より高い判断基準を持つことを望むということを強調してください。
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後日、送られてきたメールは後日談として、以下のようにありました。
October 15, 2003

Dear HSLDA Members and friends:
Your calls are having an effect!  Due to the overwhelming response from homeschoolers we have included additional contact information for CBS Evening News. Please continue to express your opposition to the biased reporting and smear campaign against homeschooling.

ホームスクーラーからのメールが功を奏して、イブニングニュースで追加コメントされました。
「バイアスのかかった報告や、ホームスクーラーにとって罠となるようなキャンペーンには対抗し続けましょう。」とあります。

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HARU-SAN(^-^)/~のコメント
 ホームスクーリングに対して市民権が与えられてきた米国でも、ホームスクーラーが厳しい状況に曝されていることにはかわりありません。日本でもホームスクーリング情報より、児童虐待報道が目立つなかで、「幼児虐待」を名目にして、国家がホームスクーラーに介入したり、処罰できるような危険性と隣り合わせにあるという意味で、日米それぞれにホームスクーラーがおかれている状況は同じです。幼児虐待の問題それ自体について、問題視しないわけではありません。だた、ホームスクーリングへの無理解や偏見をそのまま懐いたまま、バイアスのかかった報道がなされたり、そのようなバイアスのかかった問題のある報告や報道などを根拠に、行政がホームスクーラーへの“としまり”を始める危険と隣り合わせにおかれているということをいつも認識しなければなりません。つまり、勝利を信じつつも、“当面の敵は何であるか、どんな戦略があるか”を意識していなければならないのです。
 初代教会で、迫害の中におかれたクリスチャンのように、やがて確かな市民権を得るだろうと楽観的であるべきですが、ホームスクーリング運動が、いつも「学校で子どもが死ぬ」という悲惨な事実と隣り合わせにあるのだという事実(たとえば、池田小学校における殺人事件以降、ホームスクーラーが増えたこと)と、国家の教育戦略(たとえば、児童相談所などを経由して、児童虐待を名目にして、ホームスクーラーへの監視と指導が強化されようとしていること)との間における情報戦に曝されるのだという面を忘れてはいけないでしょう。
 
 

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  結婚制度ということ
 
  HSLDA(ホームスクーリング法律擁護協会)からのニュースによると、米国連邦議会は、結婚に関する修正案をめぐり、ゲイのカップルによる“結婚”を制度化しないことを検討している。当然、HSLDAの立場は、聖書的な結婚観を社会存続の唯一の指標とする伝統的な立場であり、連邦議会が“現代化”の波に飲み込まれないように意見書を提出したと報じられている。
 この議論の背景には、「結婚が男と女に固有な関係であることを国家が強制的に定めているのは、多様な結婚観が市民権を得ている現代においては時代錯誤であり。男女観の結婚は制度として維持しつつも、女と女、男と男の間の“結婚”も夫婦としての市民権を与えられるべきだ」という考え方が背景にある。社会の単位は、男女が形成する家庭ではなく個人であるという考え方は、たとえば共産主義の考え方にも家族の相対化は存在していた。子どもは家庭のものではなく、社会のものだ。社会にとって、指導者とその指導者のリーダーシップのもとに役に立つ“人材”であるかどうかがすべてを決定する。家庭は相対化され、生殖も社会貢献だけがその価値と意味を与えられることになる。(時には、かつてのルーマニアではシャウセスクが、今日でも北朝鮮では誰かを“父親”と呼んでいる。)この立場にそれに対抗できる思想は、個々の家庭を社会の基礎に据える立場で、これはキリスト教(ユダヤ・キリスト教的思想形態)を基盤にしている。共同とか“共産”の母体になったのも、キリスト教の原始教会を“原始共産社会”と呼んだことに始まるのは、皮肉といえば皮肉だけれど、もし、聖書の価値観が支配している社会なら、家庭単位(一人の男と一人の女間の結婚契約だけを受け入れる)が社会の基礎とされることだろう。米国社会は、このような背景から、もともと家庭を社会の単位として尊重する気風が根強く、米国の影響下にある日本の現行の“新憲法”も、一対一の男女間の結婚を制度面では支えている。 
 そのようなキリスト教的な気風と社会制度を相対化して、夫婦の概念をゲイやレズなどのカップルにまで広げるべきだとされ、それが「人権」を錦の御旗にしているので、問題の本質がはぐらかされる。人権といえば、たとえば、国連の「子どもの人権条約」は虐待や威圧から子どもたちを救済するためのすぐれた狙いをもつとはいえ、家庭内虐待(ドメスチック・バイオレンス)の問題に指標を与えようとするだけに、「家庭が社会の基盤である」という考え方をとっていない。国連が共産主義の立場をとっているわけではないだろうけれど、このような一定の枠組みにある議論を、子どもが親に逆らうのを“権利”として通念化したとき、どのようなことがおこるか。すべて親の立場は相対化される。いや、未婚の母や、結婚外出産が日常茶飯事になった現代では、多数の子どもにとって、家庭は望むべき場所ではないとみなされるだろう。そのような例があることを認めないのではなく、問題は、家庭環境の相対化を加速させる考え方があちこちにみられるようになったということだ。
 世界人権宣言では、第26条の3で「親は、子どもの教育の種類を選択する優先的権利を有する 」とのべたものの、子どもの人権条約に至っては、その考え方が後退した。それほどDVの問題が深刻なのだろう。しかし、結婚制度の相対化や家庭の社会基盤の相対化は、危険な兆候なのだと思う。思想信条の自由が社会契約として確保されていなければならないけれど、(副幹事長になったあの山崎さんも、改憲議論のついでに、そこまでは言わないだろうけど)結婚制度の相対化は、性概念の腐敗を招き、社会に確実に滅亡をもたらす。
 結婚制度を事実上全廃した社会は過去にあった。旧約時代のあのソドムの町であり、新約時代でいうならローマの町だ。
 パウロは、ゲイやレズのカップル、そして“美男子誘拐(美男子を誘拐して、性的にもてあそぶ風潮)”が溢れていたローマ社会の実態をふまえてこのように言った。“神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。”(ローマ1:26〜27)
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ラスコーリニコフ

  世に希望らしいいものがあまり見えてこないので、あれは、つい口を出る“ぐち”のようなものかもしれない。
 石原都知事は、外務省へのテロには根拠があるかのような発言をした。
  だが、テロをおこしたくもなる。と言った途端。暴力やリンチを含む暴虐を容認したことになる。そのような世論は、短絡的なのではなく、テロリズムの背景には、米国の覇権主義があると言ってきたことと、同じ脈略にある発言であるには違いないからだ。私は石原さんのファンでも支持者でもないが、グランドゼロのテロ事件以来、日本国内での有識者の発言は、テロリズムにも“それなりに理由がある”だったのではなかったか。
 テロも悪いが、テロをおこした米国の覇権主義はもっと悪いというものと石原都知事の言い方には共通項がある。この理論は、反米、いや反ブッシュさんの、その非難の中核にある根拠だったといっていい。
 テロは悪い。しかしテロにはそれなりの理由があるなどと、暴力を肯定したような発言だったが、石原さんは謝罪を求められたけれど、撤回しなかった。それは、アメリカ批判で流行しているくだんの論理を、国内問題にも適応しただけだからなのではないか。
 普段石原さんに批判的な世論は、この機会に揚げ足をとりたいだろうけど、もしこの意見を非難したいなら、その同じ論理で、テロとの戦争を宣言したブッシュさんを擁護できないとした論拠と、なぜか奇妙な不釣り合いに陥る〜もしくはその論理に首尾一貫性を保てなくなる。いや、ブッシュさんにだって大義名分はあり、暴力国家といわれようがなにをいわれようがそれなりに理由があるのだと思い入れることさえできるはずだ。都知事は、つまりそのての言い方を忠実に再現したまでだと言っては言い過ぎか。
 私は、石原さんの発言に賛同しているのではない。
 犯罪や暴力、場合によっては殺人にだってそれなりの根拠がある〜これはかの「罪と罰」(ドフトエフスキー)のなかでラスコーリニコフが金貸し老婆を殺した時に言った論理と同じだ。つまり、殺人だろうがなんだろうが、社会悪を抹消することが、結局改善を生み出すと確信するなら、たとえ暴力にうったえてでも、排除すべきであるという言い方になる。それは、あの路上生活者に暴力を加え、死に至らしめた少年たちと同じ稚拙な論理だ。「殺されるような生活をやってるほうが悪い」という要するに、発言の基盤となっている考え方そのものがひどく幼稚だ。
 犯罪を犯すがわからみると、“犯罪”というのは、ワンサイドの判断に過ぎないようにみえる。むしろ、勧善懲悪なんぞは、単細胞の言うことで、世間が悪者扱いする存在にだって、いや泥棒や殺人者にだってそれなりの理由があるのだと言っているのと同じだ。そういってしまえばどういいうことになるか。たとえば指導者がそのように発言するだけで、どんな暴力も肯定されてしまう。これは決まってひどい結果を生むことになるだろう。おまけに、現都知事にはそのような因果関係が見えないらしいということなので、実はこれはもっと深刻だ。いじめだって、いじめた方にもそれなりの理由があり、いじめられるほうだって、そうされる理由があるとってしまえば、子どもの中に必然的に“いじめ”が奨励されたことになる。それだけ、影響力の強い立場なのだから、彼にそのようなポストを与えた選挙民の側にむしろあの発言の全責任がある。
 石原さんが、かの殺人事件で訴訟にまでなった、「戸塚ヨットスクール」の再建のために尽力し、今でも理事の一画を担っているのも理由がなくはない。暴力を「教育」の名のもとに肯定できるという思想の根拠は何か。この解明は、石原さんに流れている思想や信条にかかわるのでやっかいな仕事だけれど、著作によってある程度知ることができるだろうと思う。
 まだ、未調査としておこう。
 ただ、その思想の体系全部は、今の私には、まだブラックボックスだったとしても、結果から原因がほぼ推測されうる。
 暴力を肯定できるからこそ、今回のような発言に通じるのだ。テロを肯定したばかりか、発言を批判する声があまりに大きいことに納得できなかったようだ。もし、暴力を肯定する思想が支配的になったら、北朝鮮のように批判の声さえ抹殺されるだろう。私の発言も生き残れないと思う。だから、言論の自由という意味では、日本にはまだ健全な部分が残っているのかもしれない。
 今回の発言とは関係なく、実際には、ミニテロのような事件が、毎日のように報じられている。
 いきなり、根拠もなく殴る。いきなり、バットで通行人を殴る、金を奪う。そんな人々の行動をひとつひとつ「根拠がある」と読みとり、その発言の社会的倫理的な問題性(罪性)を認識できないこと、そのような指導者がものごとを仕切っていることがどれだけ危険なことだろうかとおもう。
 繰り返すが、石原さんは、結果としてテロリズムを容認した発言をした。それを撤回も否定もしていない。しかも、その発言のどこが悪いというような発言をくりかえして、批判する人々を牽制した。
 これで、言論弾圧までいくようなことがないことを願う。
 だから、この国にはこれからますます「プチ・テロリズム」がみられるようになるだろう。(もちろん、ホームスクーリングは革命的であっても、テロリズムとは何の関係もない。)でも、学校や、教育行政が、今後テロ国家みたいなことをホームスクーラーに対してしかけてくるかもしれないとは読める。そのように考えてくると、ブッシュさんの立場を、ウサマビンラディンの“正義のテロ”から揶揄するのもいかがなものかとおもう。テロはいけないが、テロの原因をつくった国はもっと悪いといえば、もっともらし言い方だが、原因の分析だけでとどまらず、それはやはりテロそのものの肯定になるからだと思う。ただし、米国の戦争が必要悪だとは全然思わない。イラク戦争の根拠だって、いまや風前の灯火だ。米国は、テロとの闘いのなかで、自分自身がテロリズムの手法に手を染めていることに気づかなければならないからだ。これは大日本帝国に抵抗した勢力が建設した北朝鮮が、皮肉なことにかつての敗戦前の日本に酷似しているのと同じだ。どんなテロでも、それを肯定するような思想は、絶対に根絶されなければならないと思う。
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劇場効果
 もはや、あまり疑う人はいなくなったとは思うが、「自民党総裁選」が劇場効果を狙ったものであることは明白だ。
 主役のスーパーヒーローは小泉さんである。ヒーローはできるだけかっこいいほうがいい。見た目やパフォーマンスだけで動く国民性だから、中身は森前首相と全く同じ、考え方や判断基準さえうり二つであっても、外見が違うだけでこれほど人気に差が出てくるのは実証されているから。だから、「自民党をぶっ壊す」と、派手な言い方を流しておけば、保守層ばかりでなく、改革を望むかなりの層の票を見込めるはずだからである。実際には、これまで自民党が小泉さんの言葉通りに「ぶっ壊されてきた」などとは露も思われない。むしろ、旧派閥体質と利権構造が、全く傷もつけられずに温存されてきた。
 ただ、さすがに見た目のだけでは“張りぼて”で説得力はないから、脇役を固めなければならない。それで、「自民党総裁選」でとても本気とは思われない対抗馬を繰り出して、「できるだけはでに、反小泉をやってくれ」というわけで、野中さんまで引退声明のついでに「反小泉」で固まった〜かなとまで見せた。
 改革者小泉さんは、自民党の頭の堅い古株と一騎打ち。この演劇のポイントは、小泉さんへの人気をくいいとめて、少しでも自民党に票が流れるようにすることだ。だから、できるだけ脇役は、うるさく、きたなく、派手に反小泉をやったほうがいい。これは半端ではいけない。「できるだけ派手にドンパチやってくれよ」と願っているのが他でもない「小泉さん」なのではないか。いや、黒幕である中曽根さんや、現都知事の石原さんじゃないのかな。
 もともと、森さん、小泉さん、中曽根さん、そして都知事の石原さん、それに、そうそうあの亀井さんは「夜の飲み友達」の大の仲良しなのであって、この5人は、一度都内でおこなわれたうちあげの「飲み会」で、お台場でカジノ構想に盛り上がった。
 だが、石原さんの提案空しく、都議会の反対にあって沙汰止みになったという経緯がある。だから、亀井さんと小泉さんが対立している…なんていうことは真っ赤な嘘。
 自民党総裁選で国民が舵取りされていると思われているので、自民党以外の国民は、「指をくわえてみていなければならない」のであって、小泉さんにぶら下がってくれればいいのだ。もちろん、そんなことに国民が納得できる筈はない。
 劇場効果で、大切なのは、スポットライトだ。この役割は、マスコミが果たした。本心かどうかとは別に、この嘘くさい「自民党総裁選」を何のてらいもなく、全マスコミは真面目にとりあげた。報道管制があったのだろうと思うのがまともだ。自民党政治だけがこの国を仕切るのであって、他の批判やヤジでさえ許さないという手法がみえる。当然法規制はないので、マスコミに賄賂が使われたのではないと思うけれど、何らかの“おどし”はあったと思う。声が大きいほうが勝つ。戦略に長けた方が生き延びる。自殺などした中高年は負け犬、勝ってなんぼ。負けたらさらしものになるのがこの世の道理。こんな人生観が蔓延しているので、生きる希望が見えない。本当は希望は存在しているのに、この「暗闇劇場」からは希望が見えてこない。
 しかも、「小泉さんの圧倒的勝利」などというテロップがマスコミに流れる。どうしてかな、自民党の中だけなのにと思っていると、一般調査でも小泉さんの人気が回復したといわれている。
 一度歌舞伎を見たことがある。ある意味、歌舞伎を実際に見ておいてよかった。今の「総裁選」が歌舞伎に似ていると思っておもしろかた。歌舞伎のほうが芸術性が高いから、そんなこと言うと、かえって失礼になるかな。類似だけで、あれこれ言う気はないけれど、政治手法は、歌舞伎を観劇する側の心理をよく捕らえていると思って、感心している。歌舞伎役者みたいな政治家で済めばいいけど、この国は、小泉さんの時代に、すでに「海外派兵」が可能な国に変化してしまったんだからね。国旗・国歌法、住民基本台帳制(住基ネット)、いわゆる盗聴法、それに自衛隊の海外派兵が容認されたとなれば、後は軍国化と再軍備化しかない。ヤスクニの復権をねらっているのは、軍隊の活動には精神的支柱が必要で、たとえ従軍して死んでも、公式参拝してくれるという行事が「待っている」というシステムを構築したいからであり、たとえ派兵されて死んでも、安心しろ。最低でもあの小泉さんが泣いてくれるから。かつての特攻隊の潔(いさぎよ)さを見よ。なんなら慰安婦だって何だってつけてやるから、これからの若人は、安心して潔く国家のために死んでくれてもいい時代になった。もしかしたら、天皇陛下も御意(ぎょい)で泣いてくれるかもしれない。
 なんてさ…。
 嗚呼!そんな時代錯誤の国にさせておいていいのか。
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