第19回東京ホームスクーリング祈祷会 バイブルメッセージ下諏訪キリスト教会 牧師・清野隆二
第19回東京ホームスクーリング祈祷会 バイブルメッセージ
「この子を主に委ねます」
「さて、夫エルカナが家族と共に年ごとのいけにえと自分の満願の捧げ物を主にささげるために上って行こうとしたとき、ハンナは行こうとせず、夫に言った。「この子が乳離れしてから、一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。そこにこの子をいつまでもとどまらせましょう。」 サムエル記上1:21。
自分のもとで子どもを育てる
ハンナに子どもが与えられました。でも、それは10数年の苦しみの後でした。夫エルカナには2人の妻がおりました。後から加わった妻ペンニンナには次から次ぎへと子どもが生まれますが、自分には子どもが与えられません。聖書はもう一人の妻には、「息子たち、娘たち」(4節)と複数で書いていますから、最低でも4人はいたと思われます。ハンナは、その10数年間の苦しみの間、必死に神様に祈り求めていました。そして彼女に子どもが与えられた時に、彼女には「子どもを育てる」明確なビジョンがすでに与えられていました。私たちに必要なのは、そのビジョンです。
家族が宮参りする時に、「ハンナは行こう(22節)」しませんでした。そして、この子が乳離れしてから主のもとに連れて行き、いつまでもそこにこの子をおきます、と言いす。ハンナはなぜこのようにしたのでしょうか。その一つの理由として、主の宮はエリの息子たちのよこしまによって汚されていました。それが今日の教会だとしたら、皆さんならどうするでしょうか。連れて行くことに疑問を持つでしょう。しかし、最も根本的な理由は、彼女自身が申命記6章のみ言葉に従ったのだと考えます。
特に6:2に、「あなたも、あなたの子孫も生きているかぎり、あなたの神主をおそれ、わたしが命じるすべての戒めとおきてとを守って、長く生きるためである。」
2節に注目していただいたのは、神様の戒めは、「あなたも、子も、孫も」と個人に与えられている以上に、家族に与えられているということを知って欲しいからです。そうしますと、神様のみ心を実現することは、一人でやることではなく「家族」によって実現できることだということになります。
その神の御心を表す戒めは、5節にあります。「あなたは心をつくし、魂をつくし、力をつくして、あなたの神主を愛しなさい。」。それでは、どういうふうに神様を愛し、戒めを守るのかというならば、それは7節です。「子ども達に繰り返して教え、家に座っているときも、道を歩く時も、寝ている時も、起きているときも、これを語り聞かせよ。」これは、徹底的にみ言葉を中心にして生きるということです。そのことがより具体的に8節に書いてあります。「これをしるしとして自分の手に結び、覚えとしてひたいにつけて、家にもつけて、教えなさい。」あるホームスクーをしている兄弟の説教にもありました。「手に結ぶ」とは、手は行動ですから、行動がみ言葉に一致していること。言行不一致ではいけませんね。「額につけて」とは、額は人格をあらわしますから、聖書のみ言葉が、親の人格になって、すなわち親が模範となっていなければなりません。ハンナはこれに従ったと思います。
乳離れするまで
そしてハンナは、さらにもう一つのこと、「乳離れするまでは、子どもを神殿には連れていかない」と決意していました。人間の子どもにとっての乳離れは、1才?1才半、遅くても2才くらいでしょう。でも、このところでの乳離れは、霊的に考えるべきだと思います。それは、親が子どもに与えるべきものを十分に与えて、子どもが自分の力で食物を食べていけるという時まで、と考えてはどうでしょうか。あるいは、子どもの側からするならば、自分が親から受け取るべきものを十分に受け取るまで、と理解することもできます。これが「乳離れ」という言葉の意味になると思いますね。
もちろんこの「乳」は、母親の胸から出るところのおっぱいという以上に、ここでは霊の乳を表しています。第一ペテロ2:2に大切な見落としやすい大切な御言葉があります。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕いもとめなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」。ここで「救われるようになる」という言葉の意味ですが、この救いは何の救いを意味するでしょうか。「神様の子ども」となる回心のことでしょうか。そうではないですね。事実、霊の乳を飲める者はもうすでに神様の子どもになっています。ですからここの救いとは、神の子どもとなる救いではなく、「世からの救い、サタンからの救い、自分自身の肉からの救い」という「聖別」を表しています。私たちの子どもたちは、必ずこの世に出て行く時がきます。それは、小学生くらいから世に出て行きます。友達の家に、学校に、その前に幼稚園に保育園に出て行きます。ですから、親はその前に霊の乳を与えて、子どもたちを成長させておかなければなりません。子どもが世に出る前に成長させておかなければ、世から彼らの魂は奪われてしまいます。霊の乳を与え、神の善と悪の基準を子どもたちの心に叩き込んでおかねばなりません。これは家族に与えられた重大な戒めです。
ハンナが「乳離れするまで」と言った意味はここにありました。子どもを外に出す、たとえ、それが教会であったとしても、その前に親である自分が霊の乳、まじりけのない霊の乳を飲ませて、子どもを成長させておかなければ失ってしまうと考えました。事実、教会はこの間違いをやってきました。私自身もその間違いを犯してきました。教会で多くの子どもたちを育てたつもりでした。でも、聖書の戒め(言葉)に従っていると言えないものでした。その結果、中学くらいになると子どもたちは世に負け、高校生になった頃には、ほとんどの子どもたちがいなくなりました。彼らの内側には、イエスを主と信じる何かは残っていると信じたいです。しかし、クリスチャンとしてはこの世に負けています。なぜ負けてしまったかといえば、育っていなかったからです。なぜ育たなかったのか、それは世に出る前に、霊の乳を十分に与え成長させていなかったからです。
人間は、精神病理学的には6?7才くらいまでがとても重要な時期といわれます。6?7才までは、親の言うことを無条件に信じられる年齢です。夫婦が愛し合っている家庭においては、6?7才くらいまでの子どもは親の言うことを全面的に受け取ることができます。すなわち、親のおっぱい(親の言葉)を飲める(素直に受け取れる)時期です。心のおっぱい(心)と、霊の乳(神の霊)を親から十分に受け取って成長しなければなりません。これが必要です。子どもたちは必ず世に出なければなりません。その前に成長させておかなければなりません。
世に出て負けない神の子どもに
聖書を見ると、千年王国がやってきます。千年の期間の最後には、サタンが解放されると書いてあります。そこで神の子どもたちはもう一度試みられます。そのことから、クリスチャン家庭とは、悪やサタンが排除された千年王国の中ともいえます。クリスチャン家庭は、「キングダム(神の国)」です。そこで親たちは子どもに霊の乳を与えて成長させます。やがて、サタンが解き放たれます。それは子どもたちが世に出て行くことでもあります。その時に、世とサタンに勝つか負けるかは、その子どもの成長と大いに関係します。ホームスクーラーたちが、先ほどの申命記6章の言葉によるならば、家族として従っていかなければこれを成就することはできません。私たちはすでにホームスクーリングをはじめている恵みにあずかっています。各家庭の事情はそれぞれ違います。しかし私は思います。もし、小学校にあがる前まででも、神様の戒めに従うことができるならば、そうやってほしいのです。さらにもし、中学校にあがる前までそれができるならばそれをやってほしいです。高校にあがる前まででもできるならばそれをやってほしいと願います。
ハンナの祈り(子どもへのビジョンと祈り)サムエル記2章を見てください。ここにハンナの祈りがあります。これはとても重要です。ハンナの祈り、これは、子どもをハンナがどのように祈って育てたかを知ることができます。子どもが神の子どもとなって成長することは霊の領域であることを親は覚える必要があります。霊の領域に関しては、人間の知恵は役に立たないものです。霊のことは霊のものしか通用しません。ですから、子どもたちが神の子となり成長するには、神様からの恵みと知恵と力が注がれなければできません。だから、祈るしか方法はありません。彼女は祈ります。子どもを育てて手放すまで、ハンナは必死に祈ります。2章のハンナの祈りは、サムエルへの神様の御心を知った彼女が神に祈った祈りです。
ハンナの7つの祈り
第1番目の祈りは、1節の「主にあってわたしの心は喜び主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き、御救いを喜び祝う」です。これは、サムエルに一番大切なこととして教えたことです。それを教えるために祈ったことです。それは、「人間の存在について」です。人とは「主にあって」が全てであり第一に大切なことです。人の喜び、すなわち幸福とは、主にあって得るものです。さらに、「主にあって角を高くあげる」です。「角」とは、その人の存在を意味しますから、主にあって私は自分自身をあらわします(角を上げる)、となります。多くの人は、自分で自分の存在をあらわそうとします。自分の角を高くせよと親も学校も教えます。それは大きな間違いですね。ある人から、ヨーロッパ社会では、徹底的に自分を主張するように教える教育がされていることを聞きました。ドイツでは自分を主張できない子どもたちは学校でよい成績を取れないそうです。ルクセンブルグやオランダなどの小国は、その傾向がもっと強いそうです。その結果、ヨーロッパのキリスト教国という国々では、自由教会だけが生き生きしていますが、国教といわれる教会は、神ではなく自分を主張しますから衰退していきます。それは、自分の角をあげようとするからです。私たちは子どもたちに対して、「主にあってあなたの角を上げなさい」と教えます。主にあってです。それは自分の存在、自分の賜物を主から受け取って生きることを意味します。
第2番目は、2節の「聖なる方は主のみ、あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むものは、わたしたちの神のみ。」にあります。
この祈りは、「神とは誰か」ということです。神とは誰かと教える時に、偽物の神は何かということも教えなければなりません。偶像について教えなければなりません。モーセの第一の戒めは「私のほかに何ものをも神としてはならない」でした。第二は、偶像を造ってはならない」です。偶像について徹底的に教えなければなりません。
第3番目は、3節に「驕り高ぶるな。高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか」とあります。それは、その「子ども(人)の領分」について教えました。サムエルが自分の立場、領分について弁えるように祈りました。人の領分とは、神様に対してへりくだること。すべてのことを神がご存知であるということを意識して、神に聴いていくことです。人々の前に生きるのではなくて、神のみ前に生きること。それは親の前に正直になっていくことから始まり、それが神を愛することであり愛されることであると教え、それを祈りました。
第4番目は、4?5節の途中まで、「勇士の弓は折られる」です。これは「人間の価値観」について教えています。勇士は闘う者です。同じように人生を自分の力により頼む者の剣は折れます。「よろめく者は力を帯びる」とは、自分の能力で生きていくのではなく、主により頼む者は神の力を得ます。「食べ飽きているものは、パンのために雇われ」とは、この世を謳歌している者、この世を喜んでいる者、世で満腹している者は、飢えるようになりますね。そして「パンのために雇われる」ということは、この世を喜んでいくものは、この世のパン(いのち)を求めて行くならば、この世の奴隷となります。また、7人の子をもつ女と、子のない女を対比させています。自分の子や夫など(7人の子ども)により頼むという希望をもつ人生ではなく、神により頼む者こそ神の恵みを受ける(7人の子どもたちを生む)ことができます。しかし、自分の子どもや夫に肉的により頼むものは、子どもを失います。このようにして人間の価値は何か。この世の価値と神の価値は全々違うのだと教え、それを祈りました。
第5番目に、6?8節に、これは、「神様が決定者(主権者)」であることを教えました。人生の決定者は、人ではなく神ご自身です。自分で自分のことを決められると高ぶってはなりません。すべてのものを決定するのは神です。
第6番目は、8節から、「神様のみこころを生きる者と、御こころを外れて生きる者の結末」について教えました。それは、天国の祝福と地獄ののろいについて、いつでも子どもたちに語らなければなりません。ハンナは、わが子サムエルに教え、サムエルがそれを理解できるように神に祈っていました。
第7番目は、10節後半にあるハンナの最後の祈り、「王に力を与え、油注がれた者の角を高くあげられる」が加えられています。歴史的にはダビデの存在、さらにダビデの子孫としてくるイエス・キリスト。その神の御子の来臨を待ち望むこと。「何事もそのお方(イエス・キリスト)によってすべてのことは成就する」のだと教えます。ハンナは子どもが乳離れするまで、徹底的にこの7つのことを教えました。それから祭司エリに預けるために神殿に送り出しました。
エリに預ける
親は、いつまでも自分の子どもに教えるものではなくある時までです。ハンナは祭司エリにサムエルを委ねました。エリという名は「高い」とか、「高く上げられる」という意味があるそうです。そうすると、親はすべて最後まで自分の手で育てるというよりも、ある時から、より高いお方、神様自身の手に委ねるべきです。私はハンナがサムエルをエリに預けたのは、彼の7、8才くらいだと思っています。できればもう少し長くホームスクーリング(我が家で育てる)をするほうが良かったのでは、と考えます。ハンナがそうしなかった理由を一つ探すことができます。それは、エルカナ家には自分の他にペニンナというもう一人の妻がいました。この環境で子どもたちを育てることはとても危険です。
アブラハムにイシュマエルが生まれ、後にイサクが生まれた時に、イシュマエルはイサクをからかいました。聖書の意味からすると、性的なからかいを意味する言葉でもあるそうです。そのような環境におくよりは、むしろエリに委ねたほうが良いと判断したと思われます。でも、あのエリは自分の子どもを育てるのに失敗しているじゃないか、という人もいます。確かに彼は失敗しました。しかし、失敗を経験した人がもつ知恵というものも必要な場合があります。エリは自分が失敗した経験をもってサムエルを育てることができることもあり得ます。
愛する兄弟姉妹。私たちは、子どもたちが乳を飲める時、それは子どもが小さければ小さいほど、霊の乳を飲むことができます。霊の乳を飲んだ子どもは、やがて自分で神様の糧を得ることができます。霊の乳を飲まなかった者たちは、自分で神様の食物を受け取ることができず、世にいのちを求めて出て行きます。ホームスクーリングは簡単なことではなく、むしろ大変なことです。でも、大きな祝福です。神様が知恵と力を与えてくださいます。共に主の前に立って、この知恵と力をいただいて互いに祈りあって、ホームスクーリングという恵みのわざを続けてまいりましょう。