第15回・東京ホームスクーリング祈祷会
バイブルメッセージ
2004年10月11日
 

垂穂キリスト教会リーダー 下諏訪キリスト教会牧師

清野隆二

マタイ2章13〜15節
占星術の学者たちが帰っていくと、主の天使が夢でヨセフに現れていった。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、私が告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「私は、エジプトから私の子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 
 イエス・キリストの誕生を、羊飼いたちはすごい喜びを持って迎えました。博士たちも東の国からやって来ました。シメオンやアンナは心踊り、自分自身が待っていた方はこの方だ、といって喜びました。それと同時に、イエス・キリストの誕生にものすごい多くの不安と恐れを持つ人たちも多く出てきました。
 だれよりも、ヘロデ大王がその人物でありました。新しい王の誕生は、ある人にとってはものすごい不安を与えていくものとなりました。ヘロデ大王は、三〇数年前から、ユダヤの王として君臨し、自分の地位を保つためにありとあらゆる努力をし、策略をめぐらし、自分の親族を殺してまでも、自分自身の王の地位を保ちつづけた人物でありました。
 そこに新しい王が誕生する。これは彼にとっては最も恐れることであったのです。そこで、王権の争いが出てまいります。彼は命じました。「ベツレヘム地区で生まれた二歳以下の男の子をすべて皆殺しにせよ。」そして、殺戮が始まりました。
 しかし、このことは、広い意味でも小さい意味でも。小さい意味でというのは一人ひとりの内側で、広い意味でというのはもっと大きな全世界的なレベルで、このことが起こっているのです。新しい王の誕生は、とりもなおさず、自分を王として生きるものにとりましては、許しがたいことなのです。ですからここに、主権の争い、王権の争いが、一人の個人の内側で起こると同時に、全世界的な規模で起こってきます。
 そのあとローマ帝国はクリスチャンたちを迫害していきます。根本的な原因は何ですか?それは、王権の争いです。あるいは、いろんな民族において、国家において、争いが起こっていきます。迫害が起こります。日本における徳川時代のあの迫害は何ですか?あれは、王権の争いです。そして、私自身が、イエス・キリストと聞いたときになぜ拒否するんですか?それは王権の争いからです。
 私が主人となり、私が神となり、自分が中心となって生きようとする者には、新しい王の誕生は、許さなれないからです。ここに、王権、主権の争いが起こる、これが、ヘロデに起こっていることであり、世界に起こっていることであり、私たちに起こっていることの事実であります。
 さて、ヘロデ、そしてまた国家、あるいは、自己中心に生きる、私という存在が、新しい王が誕生するときにとるべき態度はいつでも同じです。それは、「幼子を殺す」ということです。幼子を殺す、聖書におきまして、長子の特権とか言われます。長子、といわれるとき、それは、単なる最初に生まれた男の子、という以上の意味があります。たとえば、創世記に出てくるイサク、彼は長子でした。そして、イサクとは喜びであり、永遠の命といってもいいでしょう。そういうわけですから、わたしたちには、信仰によって生まれる、永遠のいのちという長子、「神の子のいのち」があるのです。そして長子の特権は、一人ひとりの子供たちが引き継いでいくべきものです。そういうわけですから、子供たちが、神さまの子供になったとするならば、ヘロデに殺されようとした二歳以下の男の子に当てはめて見ることができます。
 それに対して、サタンは、そしてこの世の主権者たちは、子供たちを殺せ、と言います。それをないものにしろ、と言うのです。
 何によって殺すのでしょうか?現代においては、とても殺人とは思えない、むしろその人を生かしなさい、と言う言葉によって、多くの魂が殺されていきます。ひとつには、教育。もっとも恐ろしいものは、進化論から始まって、この世の教育というもの。ようするに、あなたが成功者になる、ということです。この世の因習もそうです。あるいは価値観の倒錯というものもそうですね。そして、すべてのものがそうです、あなたはすばらしい、と罪人を持ち上げます。
 しかし聖書ははっきりと言っているのです、あなたは罪の中に生まれている、生まれ変わらなければ、神の国を見ることはできないと。
 それでは、こういった社会にとって、神さまが、神の子を守るということをどのようにして行っていたでしょうか。それが、今読んだところの、夢の中で、神さまはヨセフとマリアに言いました、「この子をつれてエジプトへ逃げなさい」と。
 さて、これは今殺されるということから逃げる、ということよりはもっと積極的な意味を私たちはとるべきだと思います。それは、子供の肉体が殺される、ということ以上に、「子供の魂が殺される」の意味にとってほしいのです。子供の霊的な命を守るということにおいて、今彼らはエジプトに逃げる必要がありました。
 逃げる、ある面において、この世から逃げる、しかし、逃げるということにおいて、目的がなくて逃げるのは、何の意味もありません。逃げるというのは、ある場所から離れるためです。すなわち、どこに行くかということです。どこに行くためにここを離れるか、ということが問題です。彼らは今、ここの体制、ユダヤを離れなければいけなかった。そして彼らはエジプトに行った。しかし、エジプトに逃げたのではありません。エジプトはこの世の代名詞です。彼らはユダヤからエジプトというこの世に逃げたのではなくして、彼らは、「神ご自身のもとに」逃げる必要があったのです。この世に逃げたのではなく、神のもとに逃げていったのです。エジプトへ、しかし、彼らは神のところへ逃げたのです。そこは何のために、でしょうか。
 それは、より両親と密着して生きるためです。両親と密着する必要がありました。すなわち、両親を通して、神さまにその子供が密着するために、どうしてもここにいてはならなかったのです。彼らはエジプトに逃げていきました。
 神さまはこう言いました。「然りを然り、否を否としなさい」と。私たちは神さまの言葉に対して「アーメン」と言います。しかし神さまに対してアーメンと言いながら、この世の価値観とかサタンの声に対してはっきりと、「否・ノー」と言わずにうやむやにするということはどういうことでしょうか。それは、祝福を受け継ぐことはできません。神に対して然りとするならば、それと同じ分だけ、この世に対して、サタンに対して、「ノー」と言うべきです。
 これによって神さまは、私たちを占有することができます。もし私たちが神さまに対して「イエス」といいながらこの世に対しても「イエス」というならば、神さまは私たちに対して十分に働くことは決してできないのです。ですから、私たちが神に従って生きるということは、あるものに対しては、「ノー」と言っていかなければならないのです。いま、イエス様をつれてマリアとヨセフは逃げていきましたけれども、これは私たちクリスチャン一人ひとりに対して言えることなのです。
 イエス・キリストの誕生は、紀元前六年だと、私は信じております。ひとつの根拠が、歴史ではヘロデ大王が死んだ年が明確になっております、それが前四年です。そして、ヘロデ大王が死んでからイエス・キリストは帰って来ましたので、4年後に生まれていることはありえません。
 さて、彼らはエジプトへ逃げました。このほうが都合がよかったのです。なぜならば、エジプトはまったく違った世界なのです。ということは逆に言いますと、エジプトにおける彼らというのは、この世に生きるクリスチャン家庭、それをもっと鮮明にして生きることができるからです。
 そこはまったく違う言葉なのです。言葉は重要です。言葉は価値観をあらわしますから。ですから彼らはエジプトの言葉はわかりません。わからないということはいいことです。彼らの家庭の中にはヘブル語が語られていく。まあ、アラム語だったんですけれども。その言葉とは、神(イエス・キリスト)という言葉なのです。イエス・キリストというものが価値基準なのです。この価値感によって育てていく、しかし外はエジプトであり、エジプト語です。この違いを明確にしていくことです。
 そうです、小さいうちに、この世の言葉は必要ないのです。小さければ小さいときほど、アラム語(家族の言葉)、その価値観は「キリスト」という言葉が必要です。その言葉によって家族が会話し生きていきます。家の中に週刊誌をおいてはならない。問題となるテレビは制限していかなければならない。そういうふうにして、徹底的に、イエス・キリストという言葉を中心として、この家族の中において、会話をしていかなければなりません。
 彼らがエジプトにいるということは、すばらしいことでした。皆さんの家庭は、今、エジプトでしょう。その中で、エジプト語を話していますか?それをまずやめてほしいものです。徹底的に、むしろ違いをよいこととして、そこにおいて「キリストという言葉」によって会話をし、話をしていってほしいのです。
  やがて、ヘロデがBC四年に死にます。ヘロデが死んでから、神さまは彼らに、ヘロデは死んだからユダヤに戻りなさい、と言いました。けれども、彼らはエルサレムでなく、ナザレに住みました。もちろん、彼らがナザレ出身だったということが大きな理由でありますけれども、しかし後にイエス様はこう言いました。それはエルサレムに12歳の時に祭りに来たときですが、「ここは私の家だ」といいましたね。それなのにどうしてイエス様は、自分の家に住まなかったのでしょうか。神さまはなぜ、エルサレムでなく、ナザレに、と言ったのでしょうか。
 私は二度ほどナザレに行ったことがありますが、そこは本当にへんぴなところでした。しかし、ここに私たちに対する大きな啓示があります。それは、当時、悲しいことに、エルサレムには住んではならない、という状況ができておりました。
 多くの神さまの子供たちは、エルサレムに送られます。今日では、「さあ、教会に行きなさい、教会に行けば大丈夫。」と。子供たちが教会に行ったことで親はすごく喜んでいます。しかし次に日曜日に、子供たちが教会学校に行かなかったことにおいて悲しんでいる。それが現実ではないでしょうか。本当に行けばいいんですか?
 そこに誰が待っていますか?時には自由主義神学がそこに待っていますよ。時にはほんとに、子供たちに献身して、救いを伝えたいなんて思わない、いやいややっている教師たちだっておりますね。エルサレム、これは選ばなければなりません。いいですか、厳しいでしょうか。
 多くのヨーロッパの現実を見てください。ヨーロッパの教会から子供たちは消えていますよ。なぜですか?それは、「人から見た神」について、一生懸命語ってきたからです。しかし、それでは人は救われません。人の救いと成長は、「神が見た人間」についてはっきりと語らなければいけない。「罪」について、「義」について、「裁き」について、語っていく教会でなければ、子供たちの魂を救うことは決してできないのです。 
 エルサレムにどうぞ注意してください。そして神さまは何よりも、「エルサレムで子供たちを育てよ」とは言っておりませんね。神は教会に対してではなく親に対して、あなたが子供を育てよ、と言っています。私たちは教会任せ、教師任せ、にしてはなりません。教会に責任をゆだねてはなりません。ここに神学校の校長先生がおられて申し訳ないんですけれども、本当に私たちは、親が、親が牧師とならなければならない。魂の責任をとらなければいけないのです。ですから、エルサレムよりも、ナザレという「家庭」において子供たちを育てていかなければなりません。
 私自身は(牧会者として)エルサレムで、中に住み、子供たちを引き寄せ、多くのクリスチャン家庭の子供たちに洗礼を授けてきました。しかし、子供たちが青年になってから、多くの多くの子供たちを失いました。なんてことをしたんだろうと悔いています。いい加減にやったつもりはありません。私自身としては、それなりの力をこめてやってきましたけれども、事実、失ってしまいました。
 なぜなのか?原因ははっきりとしております。エルサレムだったからです。しかし、家庭こそ、聖なるエルサレムです。本当のエルサレムが必要です。そこにおいて、子供たちを育てていかければなりません。
 そして、イエス・キリストも、成長してからエルサレムに行きました。もちろん私たちとイエス様は違います。子供たちを、本当に成長させてから、私たちは子供を教会に送るべきです。キリストの弟子として送るべきです。
 信仰を持たせるために教会におくるのではなく、私たち親が信仰をしっかりと育ててから送る必要があります。私たちの使命は、この世界を変えていくことです。それは、「キリストの体なる教会」を変えていくことから始まっていかなければなりません。これも皆さまにとっては厳しい言かもしれませんね?
 しかし、私の経験からして、これは真実だと信じているのです。エルサレムが本当の命を失っている場合、そこに住むことを吟味しなければなりません。そして、エルサレム、これは似て非なる世界であるということ、ヨーロッパの教会を見てもわかりますし、日本の多くの教会が、このいのちを失っています。人間中心になってしまいました。
 そこのところを見抜く必要があります。本来は、エルサレムが豊かであるべきです。そして一つ一つの家庭が小さなエルサレムとなり、そこから教会に子供たちを送り、そして教会が大きなエルサレムとなっていきます。祖尿名関係によって、いよいよみんながともどもにキリストの体として、神の栄光に浸り、そしてお互いに助け合い、お互いに祈りあい、お互いの子供たちをともに育てるべきです。それこそ、本当の生きた神の栄光が現れるエルサレムです。 
 しかし、事実、イエス・キリストを一番迫害したのはエルサレムでした。律法学者、パリサイ人たちが支配していたからです。同じく、日本の教会はどうだろうか?ホームスクーリングとして立ち上がったときに一番迫害してくるのは教会でありクリスチャンであるということをよく聞くのは、そのとおり、そのことを証しております。
 見抜いてください。神さまは、私たち親に、子供を育てなさい、と命じてくださいました。子供は親にゆだねられました。そして私たちは、十五年、十六年、……と、子供たちを聖書に基づいて育てるべきです。そして、エルサレムに送るべきです。献身者として送るべきです。そして、子供たちが、この教会を、そして日本の教会を変えていくことができます。
 愛する皆さん、私たちは、このようにして選ばれました。どうかそのことを感謝しましょう。そして、本当に主にゆだねられた、この使命を果たしていくように、ともに祈りましょう。小さなグループかもしれません。しかし、私自身、ホームスクーリングをはじめてみて、本当にわかったのです。今までの教会の問題が、自分がやってきたことの問題がはっきりとわかりました。わずか二年半ぐらいのものですけれども、もうすごい大きな効果が現れてきます。教会も変わりました。どうぞ、みなさん、共に主の前に立って祈っていきましょう。 アーメン