ヤベツの祈り
第一歴代誌4:10
ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから。」と言って、彼にヤベツという名をつけた。ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。
 
 この箇所についていろいろ調べていくうちに、不覚なことに、ブルース・ウイルキンソンという方の「ヤベツの祈り」が話題になっているということがあとからわかった次第です。 専用のホームページもあって、ほとんどフィーバーしているような状態だと知らされた次第でした。ですから、人気にあやかりたいとか便乗したいというわけではありません。むしろ、後からお伝えしますが、このようなフーバーにつきものの、若干の懸念も存在します。でも、懸念をあれこれいうより、まずは、あまり知られていないヤベツという信仰の人から、今の時代にどんなメッセージを聞くべきなのでしょうか。
尊敬を集めていたとされていたヤベツについて、まず心に留まったのは、ヤベツの名前を母がつけたとき、「悲しみのうちにこの子を生んだ」とされているところです。似たような場面として、おそらくラケルの例があるでしょう。ラケルは、ベニヤミン生むとき、難産で「私の苦しみの子」を意味するベン・オニと名付けたのですが、父であるヤコブは、これがあまりに悲観的な名であるためか、「ベニヤミン」すなわち我が右手の子と言い換えたとあるのです。(創世記36:18)
この例にくらべて、出産のときどんな苦しみがあったにせよ、ヤベツは母が彼を生んだ時の悲しみがそのまま名とされたことになります。少なくとも名前のいわれからすれば、ヤベツは出生の時から、「母の悲しみ」を引き受けなければならなかったのでした。
ヤベツは、そのような生まれつきの環境にもかかわらず、他の兄弟たちのリーダーになっていきました。ただ、ハンディをバネにして、のし上がった猛者だというのではないところに学びたいのです。
本来、喜ばしいとされるべき自分の出産を、母は悲しみの中に迎えなければならなかったとするなら、ヤベツにとって第一に克服しなければならなかったのは、自分の出生を母は喜ばしさのなかで迎えなかったという、母の心の葛藤を、どう受け止めたらいいかということだったと思います。母の心が、最初に子どもの心の模範になるのだとしたら、あまり好ましい模範とはいえなかったにもかかわらず、ヤベツは、それを乗り越えることができたのだといえるでしょう。自分は悲しみの人として不幸な人生を歩むべく出生したのだという運命論を人生の基礎にするかもしれない縛りから解放されていたのでした。ヤベツにおいては、母の嘆きを、子どもが生涯引き受けなければならないという不幸の連鎖から解放されて、群のリーダーとされていました。
それが、ヤベツの信仰に根ざした勝利だったことが、続く10節にしるされた彼の祈りに示されます。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように」
「ヤベツの祈り」ヤベツは、自分が祝福を受けるだけのことをしたかしなかったか、自分の生まれつきの環境がどうだったかとか、自分の状態に関係なく、ただ主をみあげて、主は祝福を与える意志をもっておられると信じて、祈り求めたのでした。主の祝福だけが人を富ます。(箴言1 0章22節 )とありますように、神のご意志を受け止めるか受け止めないかなのでした。この世の原理であるギブアンドテークによってではなく、一方的な祝福を与えようとしておられるのだと疑うべきではないからです。自分の分け前について判定した範囲内で神の祝福が分配されるのではないのです。「自分のようなものは、この程度でけっこうです」という言い方は、実は謙遜ではなく、謙遜傲慢であり、神のご意志ではなく、自分を基準にしているのだと気がつかなければなりません。自分や他人が判定した範囲でしか、神は働いてくださらない方なのでしょうか。いえ、ヤベツの場合は、自分のおかれた分に応じて、分相応の神の祝福があるとは思わなかったのでした。
 環境が決め手だとか、「大きくなっても、めだかはめだか」という運命論もしくは、社会が人生を決めるといった決定論の変形のような考え方が、クリスチャンにも入り込んでいるのではないでしょうか。主にある希望は、単なる希望ではなく、主のご意志を信じることなのです。祝福を確信して、祈っているかどうかが問われています。「私のようなものが祈る祈りをあなたが聞かれるかどうか、それはあなたのご都合によります。でもよろしければおこぼれを」なんていう祈りではなく、神が私たちを祝福することをきめておられるのだと受け入れて祈っているかどうかなのです。願ってもむなしいのではなく、心から信じて願わないから、与えられないのではないでしょうか。ヤベツは、具体的に領土を広げてくださいと祈りました。「祝福を与えるか与えないかは、神の側の勝手なのであって、それは人が願おうと願わないでいようと関係ない」のではありません。主は願うことを求めておられるのです。
 たとえば、「人が幸福になろうがなるまいが、神は冷酷な権威者で、遠くに鎮座しておられるだけで自分のようなものには関心を払っておられないのだ」という捉え方も誤りでしょう。「あなたがたの髪の毛さえも、みな数えられている」(マタイ10:30)「見よ、イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」(詩篇121:4)ともあるのです。
 神は、人の細部にまで関心を払っておられ、そして、無関心な観察者なのではなく、祝福となることを願っておられるのです。
「災いから遠ざけ」とも祈りました。神の祝福は、心の安心、所有ばかりではなく、災いや危険から守られことにも向けられると信じたいのです。この祈りは、主のご意志に添ったもので、人間の栄光を求めたのではないのです。主の祈りにも、「わたしたちを、悪から救いだしてください。」とも祈るのです。いつも、旅先の安全を祈るべきでしょう。
 ヤベツは、クリスチャンが主の子どもとしての特権を受け入れていることを先取りしていたともいえます。私たちは、奴隷の霊ではなく、子どもとしての霊を受けているのです(ローマ8:15)どうか、大胆に祈りたいのです。(マタイ7:10-11)