関西HS祈祷会バイブルメッセージ
(2006・2・21)
父たちよ。あなたがたも子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。(エペソ6:4)
パウロは、父たちにむけて語りました。それは母親が除外されているというよりも、原則として、家の教育方針を決めるのは父親なのだという意味でしょう。父親にとって必要なのは、この責任を自覚することです。日本にある傾向の問題点は、教育が母親に一任されてしまうことでしょう。それに対して、聖書は両親に子どもを主にあって育てる責任をゆだねています。母も父も子どもが主にあって育つための責任をおいます。しかし、とくに父親に対して主が期待されているのです。父親がいない家族もあるでしょう。その場合は、天の父が父親となってくださるでしょう。そして母親のいない家族もあるでしょう。その場合は、教会がその役割を担うことでしょう。父親に対して、「子どもを怒らせてはいけません。」と諭されています。子どもに対しては、第一の戒めとして「あなたの父と母を敬え」と教えられている一方で、養育の責任者である親には、子どもを怒らせてはいけないと戒められます。子は親の意見に黙って従うべきであると考えられていた時代に、子どもの感情に配慮することを求めたということは聖書が上から下に命じるような権威主義にたった教育を示していないと教えられます。
主にある権威とは、主にある模範を示して、子どもを主にあって従わせることです。自分自身が主に従っていないまま、子どもを言葉だけで従順にさせようとするとき、子どもは怒りを覚えます。どうしてでしょうか。子どもの側からすると、親とは、自分は言うだけで、矛盾したことを行っていることになるからではないでしょうか。親にダブルスタンダードが見えてくるとき、子どもはもちろんそのスタンダードを受け入れないでしょう。それだけでなく怒りそして反抗は親に対しても、そして最終的な権威である神に対してもむけられていくかもしれません。
ここで親にもとめられているのは、教育の考え方そのものが「主にあっての養育」であることなのです。
「主の教育」と訳されている部分は、主の訓戒(nouthesia)と養育(paideia)となっていて、もし教育によって「スクール」「教室」などが連想されるとすると、聖書の教育は、主が魂を養われるに近いのです。
主は、子どもをあらゆる面で育てようとしておられます。親はときどき自分の名誉とします。あるいは、教育者としての手腕があることを自慢したいのです。それは自己目的のために子どもを利用しているにすぎません。しかし、主は、子どもがあらゆる面での成長と完成することを求めておられます。親以上に子どもの魂の救いを望まれ、そしてその能力に期待しておられるのは神なのだと信じ受け入れるべきです。
子どもは、主イエスさまを目標としていますか。この世の華やかさやうわべに心を奪われていないでしょうか。子どもに、主の望まれていない価値観が植え付けられていないでしょうか。自分で判断し、自分の意志で主に従えるような成長をしているでしょうか。もし、親を喜ばせることだけが目標とされてきたのなら、子どもの健全な養育が阻まれているとみなければなりません。
訓戒というとき、子どものご機嫌取りのような人間中心のとりかたとは違う、模範に従わせるという、時にはいわゆる「鞭」が必要な面も教えられているのです。主が私達を取り扱われるとき、試練という「愛の鞭」を用いられますが、主の方法に倣うということは、決してやさしいことではありません。ただ、親の権威を振りかざすだけのものではないのか。主の動機だけに動かされているのだろうか親が自分自身に問わなければならないでしょう。主にある養育が与えられるために、親への期待が大きいのです。☆