第6回関西ホームスクーリング祈祷会
Harusan(^_^)/の講演
クリスチャンホームスクーリングは何をめざすのか
-- 「血の塩、世の光」とされるために --1 日本で「ホームスクーリング」が語られてきた歴史と今
◎不登校からホームスクーリングへ
もしも、主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなた方の先祖たちが仕えた神々で、今あなたがたが住んでいるエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい、私と私の家とは、主に仕える。」
子どもたちに信仰を継承することが、クリスチャンホームの使命です。そのために、「家」として、偶像との戦いを覚え、わたしたちの主に仕える決心をしていなければなりません。信仰の継承のためには、偶像から守るという「ディフェンス」という面と、正しい礼拝を確立するという「オフェンス」という面があります。この2つの面がクリスチャンホームスクーラーには必要なのだと思わされます。
学校に子どもを入れるか入れないかという前に、私達にあった問いかけは、子どもたちを偶像礼拝から守りたいということでした。ここでいう偶像とは「ほとんど神格化された学校」とも、「ほぼ偶像のようになった学校教育への期待」といえるでしょう。子どもの成長を、「子どもが学校に入学させる」という過程を経ることになっています。義務教育とは、本来、教育を受ける子どもの権利を守るために、学校の設置や、授業の無料化など、行政に対しての強制的な義務としたものであり、親が子どもを学校に行かせる義務ではありません。学校教育法が間違えた適応をしてそれが戦後教育を支配してきた背景には、学校教育を神格化させる「信仰」に近いものが今まで働いてきたのだといえるでしょう。米国の初期のホームスクーラーには、「子どもを学校にやるということは、旧約聖書の時代にモレクやバアルに子どもを人身御供としてささげたと同じことだ」という考え方がありました。日本でホームスクーリングが語られてきた経過をみるときに、問題となる2つのキーワードがあります。それは、一つはフェミニズムの影響であり、もう一つは「認可」という名の行政介入です。
危険な学校から子どもを守るという意識が強かったのです。クリスクリッカの「正しい選択 ホームスクール」という本の副題も、初版は新バージョンにはみられない「想像を越えた学校の失敗、そして正しい選択としてのホームスクーリング」という副題がありました。学校文化を絶対的なものとみなさず、子どもの成長過程のひとつのコースと考えるという意味では、ノンクリスチャンの立場から出発した場合と、クリスチャンにはアクションとしては大きな違いはありません。たとえば、子どもが学校に行くことに拒否反応を示す「不登校」になり、親は学校を相対的なものとみなすというとき、何に対して相対的なのかのは、とても大きなことでした。クリスチャンの場合は、子どもにとって学校が絶対必要なものとみなさない「偶像礼拝との決別」があります。信仰を基準としているからです。そして、ノンクリスチャンも学校を相対的にみますが、基準はヒューマニズムにあります。
日本でホームスクーリングの情報に、最初に意欲的に取り組んだのは、クリスチャンではありませんでした。日本で米国となんらかのかかわりが早くからある場所といえば、米軍基地であり、その関係者のなかには、クローズされていたとはいえ、早くからホームスクーリングの考え方が存在していました。しかし、キリスト教系ではありましたが、クリスチャンということに限られていませんでした。海外駐在や海外出張などで、子どもたちが帰国したときに日本語圏に違和感がないために外国に滞在した時期に「ホームスクーリング」をはじめたというケースもありました。先にも触れましたが、クリスチャンがホームスクーリングをはじめた動機は、悪い学校から子どもを守るというばかりではなく、聖書に基づいた礼拝を確立し、主との正しい関係を確立することがあります。
クリスチャンが学校の問題点をみるとき、偶像を避ける(第一ヨハネ)ということにくわえて、聖書の世界観や人生観を教育の原点と考えるとき、学校教育では、創造主を前提としてはないし、進化論を代表とした唯物論や、日の丸君が代に代表される国家主義が植え付けられると見えるでしょう。子どもを不登児として消極的にではなく、ホームスクーリングとしてもっと積極的に受け入れようというのネットワークは、関西方面にいち早くみられました。クリスチャン系のサポート活動も早くから芽生え始め、現在関東地区ではジャック・ポット(朝霧めぐみさん代表)や、スターキッズ(衣笠健三さん代表)、アーク(笹岡靖さん代表)、ハンゾー会(渡辺健さん代表)が活動を展開しています。
ホームスクーリング情報において、関西と関東には温度差があったのです。どうしてそうなったかは謎です。ですから、推測の域を出ませんが、ひとつは、関西方面のほうが学校状況が深刻な問題をかかえていたのかと思われます。不登校の居場所である東京シューレ主宰の奥地圭子さんは、関西方面で障害児教育について講演し、1990年代のかなり早い段階で「ホームスクーリング」に触れて、一光社の「なんで学校にやるの」というJホルトの本を紹介しておられました。学校になどこだわらないで、自宅で育てる道もあると語っておられたのですが、関東地方近隣であまりホームスクーリングについて語られなかったのは、「東京シューレ」というスクール創設が念頭にあって、通所の生徒募集をねらていたからなのではないかと・・想像しています。1990年代に、関西方面では、松浦喜美世さん(現在は、ゼロネット主宰。現在はアンスクーリングに強くシフトしています。)久貝登美子さん(HSNひめじ ホルトやモアの立場を基調)、岡さん(ごしょごしょクラブ HSNきょうと)がホームスクーリングのネットワークをつくっておられました。とてもすぐれた働きをなさってこられたなと思います。ホームスクーリングにめざめたクリスチャンも、ネットワーク構築にかなり貢献してきたといえるでしょう。全国規模としては、ホームスクーラーの有志が「ホーム・グロウン・キッズ(レイモンドSモア氏の著作の題による)」という全国機関紙があり、私も連載させていただいていました。関東地区でも、アザワイズジャパン(相沢恭子氏代表)が発足し、翻訳を中心とした出版活動や、日弁連や行政機関などへのねばり強いロビー活動の結果、日弁連がホームスクーリング(ホームエジュケーション)を支持する有力なスタンスを表明するなど、将来の一つの足がかりをつくってくださいました。 母親を中心とした女性達が日本でのホームスクーリング運動に先鞭をつけてきたのです。ノンクリスチャンサイドの支援活動はいずれも、本来ホームスクーリングを実質的に支援することがめざされている 真摯な活動であり、それがまた、言い換えれば聖書の教えに基づいて家庭を再構築することをめざすクリスチャンホームスクーラーとの違いがさらに明確にされていかなければならないポイントだと考えます。つまり、フェミニズムの影響を乗り越えていかなければならないでしょう。乗り越えるための鍵は、たとえ時間がかかっても、地域教会のなかにどのようにホームスクーリングが浸透するかにかかっているのだといえます。
やがて、東京シューレは1994年に東京都内で「ホームスクーリング・ホームエジュケーション・不登校について考える」国際シンポジュウムを開催するに至ります。関東地方では画期的な集会でした。ただし、見えてきたいくつかの課題がについては後であらためて述べます。関東では、2001年に嶋本美津子さん(HSNひなたぼっこ)が創設されました。ノンクリスチャン系のネットワークは、いずれも女性たちが構築してきたあたり、日本では家庭教育がいかに母親依存の体質を温存してきたか反映しているといえば言いすぎでしょうか。母親の役割を含めて、たとえ一般的には共通の学校批判から出発していたとしても、子どもと家庭において、何が確立されるべきなのかについて、クリスチャンの立場は、聖書を基準としているゆえに、鮮明にされるべきです。◎塾産業の新しいフールドワークとして
ホームスクーリングの情報をいち早くキャッチしたのは、次に「塾産業界」でした。学校制度だけでは、子どもが成長する多様性を支援できないことは競争主義や記憶力偏重などにすでに見えていて、塾産業は、いわば学校教育を補完するための「隙間産業」として発達しました。これまで、学校教育制度を補完するためのシステムである限り、教育戦略のなかに取り込まれて、公的に存続を容認してきたのでした。(いいかえれば、政府の視点からすると、ホームスクーリングは埒外であり、公的には「存在すらしていない」ことになってきたといえます。)
増加する一方の不登校の子どもは、家庭ではなく学校以外の居場所を「塾」や「フリースクール」に求めました。ホームスクーリングをおしすすめるだけの堅固な家庭観がみあたらなかったので、そのような居場所が各地に設置されることになりました。もちろん、民間とは似て非なるものですが、行政サイドでも「適応指導教室の設置」や「スクールカウンセラー制度導入」されましたが、いずれも「学校に引き戻す」以外は想定されていません。
民間の塾産業では、早くから「ホームスクーリング支援」が打ち出され、たとえば2000年に創設された「ランドマークアットスクール」は、「ホームスクーリング支援協会」を前面に押し出し、学校に返すというだけではない別の道を提供してきました。学校が崩壊するような新しい時代にマッチした、スクールシステムを構築し、実質的には在宅の子どもたちを「スクール」に所属させて、学習支援をおこないました。
先にふれた東京シューレ主催の「ホームスクーリング・国際シンポジュウム」は、米国のクロンララスクールを規範にして、通所可能ではない遠隔地の生徒のために、新システムを発案し、「ホームシューレ」という在宅指導プログラムを紹介するのがねらいでした。ホームスクーリング本来のあり方からすると、通所できない子どもの支援はありがたいと思う親御さんはもちろんありましたが、ホームスクーリングの本来の考え方である「教育方針の決定責任は第一に親にある」という考え方とは異なっていると指摘されていました。◎「教育改革国民会議」の議論と政府の対応
2000年3月27日「教育改革国民会議」がひらかれました。森内閣当時の政府筋の思惑としては、敗戦直後制定された「教育基本法」を抜本的に改革することがめざされるも、そのこころは「自由な教育」ではなく“教育勅語の精神的復活”から、戦前・戦中のような「天皇主権」の再興がもくろまれているのではないかと指摘されてきました。一度だけ、田村氏がホームスクールに言及していますが、「ホームスクールは支援対象ではない」という意味で、これは行政の現在のスタンスであるといっていいでしょう。学校教育をどうするかという会議だということは、教育行政のこれまでの流れと何も変化していません。
そのようななか、埼玉県志木市は、2002年4月、ホームスクール(在宅教育)制度を開始しました。対象は、「学びたいと思いながらも学校へ行けない不登校の児童・生徒」それに方法は、元教員らを先生として自宅に派遣し授業するというものですから、ホームスクール本来のあり方とかけ離れているのはいうまでもありません。「教育改革国民会議」でさえ、「教育の原点は家庭であることを自覚する」と声明を出しているのに、子どもの教育を親に委ねられない体質がそのままでしょう。
穂坂邦夫(埼玉県志木市市長)さんは、「ホームスタディ制度、--アメリカのホームスクール制度と同じであります 」(2004年5月31日 中央教育審議会教育制度分科会)と紹介しておられますが、内容は、米国のような「家族の独立性」を支援するよりも、ホームスクールそのものに“枷”を与えてしまうという「名前だけのホームスクール」です。◎チアにっぽんの貢献と、日本におけるホームスクーリングの今後の課題
2000年にチアが立ち上がることをきいた私たちは、「いよいよ主の時がきた」と暗黒の地に光が照らされるような思いでこの支援団体の働きを受け止めました。私は、「ホームスクーリング」がクリスチャン信仰を実践に適応した結果であると確信していましたが、今は草の根運動を展開すべきだとして、なによりも日本でホームスクーリング情報を浸透させることが急務と思って、非キリスト教系のネットワークを尊重してきました。もちろん、その支援のスタンスは今でも変わらないのですが、チアが誕生したことは、私どもの家庭にとっても、まさに特別な事件だったのです。それは、聖書信仰をベースにした、「世界宣教」と「弟子化」が明確にされていたからでした。稲葉兄ご夫妻と、チアカリフォニア(Christian HomeEducatorsAssociation of California)のジュリー・ホーン姉に示された主のみこころのすばらしさをおもいます。事実、チアが(チャーチ&ホームスクーリングを支える会)誕生しそれ以降は、これまで日陰者だったクリスチャンホームスクーラーが、はじめて太陽の光のもとにおかれて、主にある決意と実践がここにあるのだということが鮮明になったのでした。チアが主にあって与えられた役割と、その実績には今でも感謝してもしつくされません。私たちにとって「チャーチ&ホームスクーリング」というスタンスは、チアを経由した(米国にはない)独自の新しい主からのチャレンジだったことも否めません。
ホームスクールをめぐっては、すでに紹介したように、クリスチャンでないネットワーク、塾やフリースクールを含めた産業界、それに行政の動きなど、「ホームスクール支援」の意味も多様化しています。それは、ホームスクーラーがさまざまなサポートを利用できるという面と、さらなる知恵を主からいただいて、さらに多様性を受け入れつつ、ホームスクーリングを強化していく必要があるでしょう。その鍵になるのは、今後教会がホームスクールをどう受け止めるかにかかっています。逆にいえば、ホームスクーラーも、教会に対して有効な証をたてていくべきさらなる戦略が必要だということでしょう。2 クリスチャンがホームスクーリングをするときの心
◎ 「キリストが中心である」とはどんなことか
クリスチャンホームスクーラーも、ノンクリスチャンのネットワークの実践や知恵から学ぶ必要があります。それは、クリスチャンでさえ、「スクール」へのこだわりや「学歴」へのこだわりが強いからです。なぜでしょうか。信仰さえ、世の中でよりよくいきるための手段とみなしているからなのかもしれません。
「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピ3:8)を心底から信じていないクリスチャンが多いなかで、世俗からうけた価値観を相対化することについては、もっとノンクリスチャンの方、とりわけ不登校のネットワークを含めたサイドからも謙虚に学ぶ必要があると思います。
しかし、私達は、悪い影響を相対化するだけではなく、主のために、世界観や人生観を再構築されていかなければなりません。ですから、子どもの養育において、キリストの主権を認めるクリスチャンホームスクーラーは幸いです。◎ なぜ親が教育(養育)の主導権をもつといわれるのか
聖書は、子どもの養育について、学校やクリスチャンスクールにではなく、親に対して第一の責任があることを示しています。申命記6章には「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたがたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家に座っているときも、道を歩くときも、これを唱えなさい。」(申命記6:5?7)とあります。◎行政からの介入とは具体的にどんなことか
行政からの介入は、「ホームスクーリング禁止」をよるよりも、「認可」の形式をとるでしょう。「ホームスクーリングの公認認定基準」を行政側が仕切ることで、ホームスクーラー認定について、ホームスクーラーの側に条件を付加する例があいついで、その認可をめぐり、HSLDAは「ホームスクーラーの自由」のために戦ってきたのです。これは「自由教育」という意味ではなく、国家の介入からの自由という意味です。政治権力と教会が結びつくと、教会が堕落します。その結果、自由教会が生まれました。その考え方は、ホームスクーリングにおいても同じであり、もし、ホームスクーリングが公認されるような時代になったとしても行政からの介入が最小限であるのが望ましいでしょう。担当教師(元教師)が該当家庭を定期訪問することがホームスクーリングと呼ばれる埼玉県志木市の事例を、米国では、HSLDAがもっとも問題がある形態とみなしてきました(完)