Tokyo 2020年7月04日(土)
         
 
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからで す。(ヨハネの手紙第一 2:16)

 久しぶりに連続して日曜礼拝の準備。まずはギリシヤ語釈義。ところが、「この箇所はギリシヤ語では・・・」など説教原稿におとしこ むと、知らないうちに、「わたしはあなたがたの知らない原語を知っています」という、自分では考えもしていない自慢ばなしのメッセー ジが隠れて伝わってしまう ことになりかねません。
 そんなの考えすぎ・・でしょうか。ところが、「自分を褒めてもらいたい」とか「自分を人より良く思われたい」とか、心のどこかに罪 の残存として残しているために、自慢話そのものを、「主の名で」覆ってみえないようにしているというのはよくあるのです。
 キリストの栄光がわたしの貧相な原語の知識で曇らされているのに気づかないとは!ど うしてもしなければならない原語の説明などわずかであるか、ほとんどないと気づきます。つまり、単語の性、動詞の自制、主語と動詞の関係、文法的統語論 (シンタックス)など、原語の学びは「説教の下地」として徹底的になされるべきであり、手抜きすべきでないと考えます。
 しかし、あくまで裏打ち作業なのであり、「職人」としては決して表に出してはならないのです。
 それなら、個人的経験談は?
 いやいや、これもくせ者で。いつのまにかヨハネのいう「暮らし向きの自慢」となりかねません。
 たとえば、外国に出かけてのカンファ レンスや研修旅行のすばらしい体験談。どれだけ主の名を語り、「主のみ名はすばらしい」と結んでも、主の栄光を賛美する言葉につながっていても、聴いてい る側からすると、 気がつかないうちに「自慢話」に化けます。「自分はあなたがたの知らない外国語を話せる」とか。「自分はあなたの行ったことがない外 国に行ったことがある」とか。「自分はあなたの知っているこんな有名人とも知り合いだ」とかも。
 成功談がだめなら、それなら、失敗談はどうか。あなたが本当に失敗と思っていることでも、それは主からみてどうなのかというのとは 別で、失敗談にカムフラージュされた「自慢話」なら、わたしも“腐るほど”ききました。
 たぶん聴いている人が限定された専門性の高いセミナーであれば、それもありえるかなぁ。
 とにかく、おもてむきは主の名をかたり主を 賛美するかたちをとっているだけにやっかいなのですね。
 何気なくつかう哲学用語も然り。たとえば子どもたちが聴衆の中に混じっていたとしたら、子どもたちを完全に無視していることになる でしょうね。普段つかう言葉におきかえなければ・・・。
 聴く人の立場にたって考えるなら、つまり「愛」が問われているのだとしたら、すべての説教には・・・あのれいわの山本さんがそうさ れているように「手話」が必要なのでしょうね。本来は・・ね。これは課題としておきましょう。
 調べたことを全部言わなければ気が済まないみたいなのも克服しておかなければなりません、
 説教は研究発表ではないからです。
 それに自慢の子ども、自慢の妻・・・自分が 受けたすばらしい学校教育、いえ、すべて主のからの恵みであり、感謝すべきでしょう。いまの自分があるのは主の恵みだからたくさんの 人に聴いてもらいたい気持ちが溢れるようだ! あなたにも「おすそわけ」したい!・・・とかね。妻を自慢したい人なら、世の中にゴロ ゴロいるでしょうに。
 「結婚している人は、結婚していないかのようにふるまいなさい。」というパウロの言葉の意味は決して軽くないと思います。
 聖書によれば、天国では結婚関係というのも存在しなくなるわけで、夫婦の関係は地上に限定され、どちらかの死をもって解消されると いうのが主にある定めでだからです。
 せっかくのメッセージに「毒気」を混じらせないために個人的な証とかは入れないでおこう・・・。
 やれやれ。わたしはまだまだ途上だなぁ。