Tokyo 2020年6月5日(金)
         
 

調布南教会 主日礼拝 2020年5月24日

聖書 伝道者の書3;11
説教 主にあってすべてが美しい

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終 わりまで見きわめることができない。


クリスチャンとしてコロナウイルス禍をどう受け止めたらいいかはっきりとした答えが出てこないかもしれません。
今日の聖書箇所は、ひとつの問いかけとして聴くのは可能だと考えました。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」とあります。
 コロナウイルスのパンデミックにも、それが悪魔から出ているのではなく、主の支配があるのだとしたら、なぜ「美しい」などといえる のでしょう。
 世界がこんなひどい状態なのにとても美しいなどとはいえないと問いかけがあります。
 美しいという言葉は、外見の美しさを含みますが、それだけではなく、ちょうどよいタイミングだという意味もあり、共同訳聖書では、 「神はすべてを時宜にかなうように造られた」と訳しています。「決まっている」という言い方が近いのかもしれません。服のサイズが丁 度よいとか。普段使う言葉でいえば、「神のなさることは、いつも“かっこよく決まっている”。」となるかもしれません。
 
 聖書の神は、人の禍について、いったい美しいと考えておられるのでしょうか。
 ひよっとして、神は人を喜ばせるばかりではなく、人をサディスティックで残酷に取り扱うのを楽しんでおられるのかとさえ疑ってみた くなるかもしれません。
 聖書以外の偶像を礼拝するとき、神はかならずしも人の幸福だけを願っておられるのではありません。人にたいして絶対的な力をもって いて、人に幸いを与え、しかし、同時に、非常に厳しい取り扱いをされるでしょう。聖書にもヨブは「主は与え、主はとられる主のみ名は ほむべきかな」(ヨブ記1:21)といわれているので、異教の神と似ているとみられますが、ヨブに対する主の対応は、決して残酷な結 末ではなかったのです。
 
 主は創造の御業を終えられたとき、おつくりになったものすべてをご覧になったとき、非常によかったとされ、それは創造主の感想で あったばかりでなく、最初の人であったアダムとイブにとっても、非常によかったと思われます。
 創造の最初「よかった」というとき、それは神さまの自己満足ばかりではなく、人にとってもよかったのではないでしょうか。
 神様だけが自己満足され、納得されておられるというのは、堕落の後でも、同じで、主はすべてをご支配されているなか、ことのすべて を、ご自分だけの喜びとか、満足だけにとどめておられるのではなく、常に、人にとっても「美しい」といえるようになるのを望んでおら れると考えます。
 それは、パウロが言っているところによります。

ローマ8:18−22
18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。 20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。 21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

 パウロの考え方は、苦しみとはすなわち、将来に苦しみから解放され、自由になるための産みの苦しみなのでした。
 

 神は創造の御業を完璧に終えられましたが、堕落後の世界でも、創造のみわざを止めておられないのであり、完成にむけて、整えておら れ、人が苦しみを受けるときにも、それは準備のときなのであり、そのようにいえば、人の目には「美しくない」としても、主のがわから みえているのは「美しい完成」であり、それを神様だけの占有とされず、人とも分かち合うお考えなのだといえます。

 伝道者が美しいと表現したとき、それは神様だけの視点ではなく、人からみても美しいのだとしたら、ひとつ、聖書の意味について、考 えなければならないことが浮かんできます。

 聖書をみれば、人は堕落した。しかし、堕落した後も、どこかに美しい部分は残っているのではないか、つまり、堕落を免れている部分 が、たとえ一部分であるにせよ残っているのではないかという、ローマカトリックの時代にそのような考え方が生まれました。
 しかし、聖書は、堕落によって、人のすべての属性は堕落したのであり、創造のときのすばらしい状態は残っていないと教えます。
 
 美しいと感じることですら、堕落を免れていないのだとしたら、どこに希望があるというのでしょう。
 
 そのような希望として、イエスキリストが送られてきました。
 
 わたしたちが与えられている希望は、ひとつは、世の人がもつような絶望に支配されてしまうことがないということです。神はわたした ちに禍や苦しみを与えようとしておられるのではなく、「ジャストタイミング」で、わたしたちにも「主のみわざはすばらしい」と感じ取 ることができるようにされているのです。
 少しかたくいうと「二律背反」です。二律背反とか不条理に支配されることはありません。
 カミユという作家が書いたペストが売れしているようで、わたしもこれから読みたいと思っているのですが、すでに読んだ方の感想を 伺っていて、そこにパヌールというカトリックの神父が描かれているのです。
 ペストが蔓延して、都市が閉鎖され、それをみた神父は、これを神の裁きなのであり、悔い改めよと迫ります。災いを背景に、「悔い改 めよ」と迫るのは、正しいかのようにみえ、伝道のチャンスにしたいとかいうひとも現れるかもしれませんが、主のみ心全体を分かってい るのかというとそうでもないのです。
 伝道者は、「神がおこなわれる業をはじめから最後まで見極めることはできない」(11節)と述べているでしょう。
 たとえ、信仰があったとしても、だからといって、主がそのご計画すべてを現したり、すべてを理解させてくださっているわけではない のでした。
 物語の世界ですが、ペストのなかに出てきたパヌールは、結局答えを見いだせないまま、病に倒れます。熱心になって災いの意味づけを 探そうとしても、みあたらなかった、結局不条理に飲み込まれたという描かれ方となります。
 今の時期にどうしてコロナウイルスが蔓延しているのか、全部の意味は今はわからない。
どうしてこうなったか、どのようにして、これが美しくかえられるかわからない。しかし、今はすべがわからないけれども、いつか、すべ てをわかるようにしてくださるという信仰に立てるのではないでしょうか。
 幸せも災いも、主のからありがたく頂戴しなさいというのではなく、たとえ、今の状態がそのままかわらないとしても、主の心は、わた したちによいことをされ、「美しさ」を実現しようと願っておられると信じるのです。
 主にあって、絶望に陥ることはありません。
それは、イエスさまが勝利者であり、私たちがどんな場合でも絶望に陥ることなく、見えない希望の光を与えられ、やがて、「美しさ」を 伴ったかたちにしてくださると信じましょう。 (了)