Tokyo 2020年6月3日(水)
         
 
学校に行かなくてもいい

 コロナウイルス禍によって、大多数の子どもたちが通学から引き離され、在宅で生活することになりました。
 それまで、ほとんどの時間を学校で過ごしていた子どもたちに、「友達と遊べないストレス」とか「学びの遅れが心配」だとかいわれて いるようですが、いったいほんとうなのでしょうか。
 学校で受けるストレスそのものを、切磋琢磨のもとに無理矢理受け入れさせ、結局いじめを肯定していたのは、学校サイドなのではない でしょうか。
 わたしは、大多数の子どもたちが、コロナウイルス禍の影響にあったことによるとしても、強制的に学校に行かなくてもよくなって、平 穏な毎日を送っていると思いますよ。
 「コロナ」に感染した家族がいるといううわさは、家族のひとりで感染していない子どもの周辺の学校につたわります。「学校に行きた くない」とうったえた子どもの声は、いまこそ受け入れるべきでしょう。
 学校はたてまえとして、いじめと戦っているふりをしていても、実際は、「学校教育」そのものがいじめ構造によって成り立っているの であり、記憶したくもない内容なのに、「将来役に立つ」という名目で、おしつけられ「すりこまれて」いるのでしょう。
 それは、どうみても子どもへの虐待であり、いじめ以外のなにものでもないのです。

 まして、試験や成績など、意味があるのでしょうか。子どものためになるのかならないのかだけでいえば、何の役にもたっていません。 教師が、自分たちのもっている目標の達成度を知るための数値でしかなく、子どもたちも個性を持った人間ではなく、教師が自己礼賛をす るための具、人工知能でできたアンドロイドみたいなものなら最高です。
 いえ、いまどき、子どもたちにとっては、スマホやPCをつかったインターネットこそ「教師中の教師」であり、知識だけでいえば、学 校の教師など、これからますます必要なくなるでしょうし、小学校中学校高校どころか、(わたしは大学教育など高等教育機関が大切だと 認識しているのですが)、「大学卒業」を社会的クオリティとみなす風土から日本社会が完全に脱したとき、政府が「喉から手が出るほ ど」ほしかっている国際競争力が根付き始めると確信しています。
 
 研究機関としての大学や大学院などが消える理由はみあたらないのだとしても、やがて、青少年のための初等中等教育の社会的存在意義 はどんどん薄まり、やがて公的教育機関は教師や学校とともに存在そのものがいらなくなります。

 「あなたは東大出?すごいね」「ぼくは京大出。・・・もしかしてきみとぼくは天才なのかもしれない」などと人をみるなり人格評価ま で呼び込むような社会から、もっとまともな尺度によって人材評価をできるような空気が生まれるかもしれない。
 このコロナウイルス禍後の日本において、実現できるための道が、・・・ひよっとして、見いだせるようになるかもしれません。
 まだ道程は遠く、目標はまだまだ遠くですが、きっと、希望は見えるでしょう。