Tokyo 2020年5月3日(日)
         

互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださっ たように、赦し合いなさい。
エペソ人への手紙4章23節

 わたしは、およそ7年間ほど、知的障害をもった子どもを含めた統合形学習塾でアルバイトしたことがあります。
 マンツーマン形式。もっとも「塾で教える」というかたちをとっていたものの“学習”とはいうものの、実質的には遊びや体験などを含 む総合学習であり、教師が教科書をつかって子どもを教えるなどいう「枠」は役に立たなかったのです。
 つまり、旧態依然とした学びの方法は通用せず、同時に、「障害児教育」について本などを通じて学んだことのすべてを“捨てる”とこ ろからはじめなけれならなかったのでした。
 その意味では、“教えることはなにか”“学ぶことはなにか”を徹底的に学ばされ、それまでの考え方を洗濯されるような貴重な経験を させていただきました。
 そこは、いわゆる「障害児」ばかりでなく、高校受験、大学受験、そして外資系就職などを希望する子どもも一緒に学ぶ教室でした。
 通算すると、およそ60名ほど。そして、Tくんとは4年。比較的長いほうです。
 Tくんの知的障害は「どちらかというと軽くはない」。
 通例の「教える」とかは通用せず、こちらでなにかを伝えようと懸命になったところで無駄で、ただ一つでも、なにか食いつけるものを 見つけるためだけの時間が過ぎていきました。
 結果、最後に見出したのが、パソコンの「ペイントソフト」でした。Tくんは、はじめからおわりまで、本人は「換気扇」とかいってま したが、要は「四角いかたち」をたくさん描いて、画面を埋め尽くしていたのです。
 なぜ換気扇に興味をもつようになったのか、そして、どうして換気扇の絵しか描こうとしなかったのかは謎。
 およそ2時間。ひたすらマウスを動かしてペイントソフトで楽しそうに「換気扇」を描くのです。
 ただただ、ひたすら「換気扇」。
 周囲は別として、本人にとってはものすごく楽しい時間だったに違いありません。
 ただ、わたしには、少なくとも、ひとつのことだけはっきり見えていました。
 つまり、おそらく換気扇の絵を描くのをゆるされていたのは塾でのわたしとの時間だけだったのであり、家庭や学校の教室では、「ひた すら換気扇だけ」は、とにかく言うのも書くのも禁止されていたらしかったこと。
 禁止していた言い分としては、「ひたすら換気扇」だけでは、知的訓練になっているとはとてもいえないし、周囲からTくんの知識の広 がりが見えなかったこと、親も教師も、知的成長が見えなかったという、いわば「周囲が勝手に判断基準の枠から見ていた」にすぎませ ん。

 ある日、“授業”の一環として外出しました。
 Tくんは、あるきながら、ひたすら「換気扇。あの建物、この建物と、換気扇のあるところを指差しては、歓声を上げています。
 わたしは「あ!そっかぁ!良かったねぇ」とか空返事で頷くだけ。
  塾を出て、駅に向かう途中に、4才くらいの女の子が母親といて、なぜか女の子が泣いているのが目に止まりました。
 Tくんは、その女の子に近づき、座り込み、「ねぇ、どうして泣いているの。泣かないで。」と何度か繰り返したのです。
 すぐに、お母さんが泣き止まない理由を説明していたようにみえましたが、わたしはとにかくTくんの手をひいいてその場を離れ、先に 向かったのでした。
 
 それは“優しい心”そのものでした。
 泣いているは悲しいことがあったからなのか、ただわがままで駄々をこねているだけだったのか、いずれにせよ、泣いている子どもに同 情して、いたたまれなくなり、思い入れて行動してしまう。
 Tくんがもっている“優しさ”にははるかに届かない自分が見えました。

 悲しんでいる人や苦しんでいる人が目の前にいて、「不幸な人をみなければ、自分の幸福を確認できない」というのは最悪です。
 結局、自己満足をねらっただけの「慈善活動」ほど醜いものはありません。しかし、悲しんでいる人や苦しんでいる人を目の当たりにし て、「自分の安心立命」しか考えられなかったとしたら、それと同じくらい・・・いえ、もしかしたら偽善者にもなりうるのだとしたら、もっと酷いでしょう。
 罪深い人の心に浮かぶことが常に冷酷さや他人を見下す悪臭さえが伴うというのは悲しいことです。
 生まれつき「優しさに溢れた人」がおられることでしょう。
 どうせ、人は罪深いのだから、“憐れみの心”など生まれるはずもないと決めつけるのではなく、キリストに捉えられ、キリストに接ぎ 木されている生き方を選択したとき、最も憐れみ深く、「心優しい」(マタイ11:29)とされる主のご性質に近づけると信じたいので す。