Tokyo 2020年4月27日(月)
         

姦淫の現場で捕まえられた女の聖書記事 
ヨハネ福音書8:1-11

 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、 律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この 女は姦通をしているときに捕まりました。 5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るため に、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは 身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にい た女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったの か。」 11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 以下、デボーションノートではありません。
 どちらかというと聖書の「本文(ほんもん)批評学」に属する課題です。
 姦淫罪について、ユダヤの伝統では公開処刑とされていました。
ただし、主イエスのまえに「姦淫の現行犯で捕まえられてきた」女を引き連れてきたのは、「姦淫罪」そのものを処罰することをね らったのでもいわゆる社会正義に根ざしていたわけでもなく、言いがかりをみつけだして、主イエスを訴える口実を見つけ出すのをね らっていました。
 「モーセ律法によれば、石打ち刑にせよ」といえば、罪人たちに示してきたこれまでの主イエスの行動と矛盾していると攻め、「石 打ち刑」に賛成しなければ、ユダヤの伝統への反逆者だというレッテルを貼ることができる。つまり、どちらにころんでも、落とし穴 になるとふんだ悪巧みでした。
 結局、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 と問われた祭司長たちが、歯が抜けるようにその場を離れ、最後は主イエスとその女だけが残され、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう 罪を犯してはならない。」と諌め、その場の危機から救いました。
 1990年代米国において、モーセ律法を「社会的規範性」を再構築をめざすプロテスタントの神学議論があり、もちろん十戒遵 守は宗教改革以降であってもカテキズム教育において生かされ、伝統であったともいえますが、ユダヤ社会における十戒適応を社会法 とみなすと、たとえば、この箇所で登場している女の「姦淫罪」を許した主の姿は、「姦淫罪に死刑を適応せよ」という議論に歯止め のひとつとなります。
 姦淫罪への死刑適応を肯定する議論のなかに、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 という主のことばに、“石を投げる”ことそのものを拒否されているわけではく、内在している罪を問題にしておられるのであり、姦 淫罪への主の態度は、おおむね極刑に相当するとする解釈がみられました。とうぜん、主は「罪なきもの」のみが石打に参加できると いわれたわけではなく、罪がないものはいないのだから、石打ち刑そのものが無効だと語られたのだと素直に読まれなければならない でしょう。
 石打ち肯定派の議論のなかには、「本文批評学」を背景にした議論もみられました。
 つまり、新改訳聖書の欄外脚注に、「古い写本のほとんど全部が、7;53-8;11を欠いている。この部分を含む異本も相互間 の相違が大きい」というコメントがあり、オリジナルの聖書そのものには「姦淫の女事件」はみられなかったのであり、主イエスの 「姦淫罪への寛容さ」を神学的に支持できなくなり、「姦淫罪への極刑適応」について、少なくとも議論できるのではないかとされて いたのでした。さらに、どちらかといえば死罪を指南しなかった主の言葉は、当時、ローマから生殺与奪の権を与えられていないユダ ヤ社会において、ローマからユダヤにたいしての抑圧をかける口実を引き出させないためだという云い方もありました。
 印刷技術が発明される前、すべは写本もしくは口伝によりました。
 口伝より写本のほうが正確性が上なのはあきらかであり、写字生は、修道士たちが担当しました。新改訳聖書は、わざわざご丁寧に 脚注までつけて、聖書本文の“信憑性”に疑問を投げかけているところが気になっていました。
 つまり、このような本文批評学の出し方は、いくつかの懸念が残されているのでした。ひとつは、聖書の他の箇所においても、たと えば「古い写本」にみられないというところから、なぜ本文が古代写本に見られないのかについての“真実”にアプローチできないの です。
 「古代写本」を元に聖書本文学が構築されているだけに、「未発見なのか、オリジナルになかったのか」という聖書批評学の課題 を、聖書の権威を受け入れる信徒の目線に投げかけることに、一体どれだけの有益な意味があるのでしょうか。
 古い写本に見られないのは、聖書考古学の課題であり、「未発見の写本」が絶対にないとはいえないのだとしたら、ここで「本文批 評学」を紹介する意図が、そのような本文研究を引き出す真意はどうあれ、「聖書の権威」を信じている「聖書信仰」を攻撃すること に繋がりかねません。
 古代写本にみられないという事実が、「後代の捏造」につながるのか。まだ未発見であるに過ぎないのではないかとの疑問がわたし には残されています。
 たとえはヨハネがもともと書いていなかったにもかからわらず、初代教会の信徒が“加筆”したなどということがありえるのか。
 いえ、もし、ただの推測でないとしたら、聖書への加筆は、「この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に 書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(黙示録22章19節)に相当する罪。意図的に変更を加えたのであれば、加筆も削除 も同じです。
 共同役聖書は、カッコでくくり、他の箇所との差異を示していますが、読者の側からすると、新改訳聖書ほどの混乱を招く恐れはな いでしょう。現代訳英訳聖書では、新改訳と同じように「古代写本には〜の部分はみられない」とのコメントがみられます。
 新改訳聖書の出版側が、このようなコメントを出したのはなぜか。「モーセ律法をダイレクトに社会法に反映させよ」という米国由 来の議論か元にあったわけではないでしょうし、「古い写本にみられないものは、聖書本文の信憑性を疑ってよい」とかいう、近代神 学の刀で聖書を切り刻もうといしているわけでもないでしょう。・・・おそらく。
 わざわざ「この箇所は聖書本文としての信ぴょう性に乏しい」と説教者が講壇から語るのをきいたことはないでしょう。しかし、信徒が手にしている聖書脚注によって、それと同じことが示唆されてし まうのです。最近、「死海写本」がねつ造された偽造品であったとも報じられています。聖書本文批評学自体がそのような議論のなかにあるという学問的許容範囲にあるのかもしれませんが、一般信徒むけの聖書に、聖書そのものを疑わせるような示唆が掲載されるとはいったい何を狙っているのでしょう。
 近代神学が「聖書信仰の涵養」に貢献しているのかというところでいえば、聖書信仰を守るべき、いわゆる「福音主義陣営」におい てさえ、聖書本文の信憑性が攻撃されるようになるかもしれない“ネタ”が提供されているのは間違いなさそうです。

 社会法において姦淫罪を死罪に加えているのはイスラム法の支配する国。さらに、独裁国家で、姦淫罪というのが簡単に「冤罪」を生み出すとわ かっていて、「死刑においやるために捏造された理屈」とされるでしょう。
 なお、主イエスが姦淫罪を罰するに値しない“軽い罪”として扱っておられるという主張は、ヨハネの記事から読み解くのは不可能 です。同時に、たとえ姦淫が罪と判定されるとしても、極刑にあたらないという近代国家の法が生み出される根拠ともみなされます。