Tokyo 2020年4月21日(火)
         

「御用学者」の適格性、もしくは不適格性について

 高い報酬とひきかえに御用学者になりたいと思ったら、たぶんいろいろな要件が必要でしょう。
 (「御用学者道(どう)」なんていうものはおそらくありません。)
 御用学者にとって、いちばん大切なのは、権力の側にある人たちにとって“耳障りのいい情報についてたくさんの「引き出し」を もっていること。そして、その裏返しとして、権力者たちを批判したり、不利益になるような情報ばかりでなく、利益になるような情 報さえ、絶対にあかさない上で、権力の側にとって都合の良い情報だけを時宜にかなって提供できなければなりません。
 独裁政権の場合、いつの時代でも、体制側へを批判を許さないのであり、たとえ、批判の内容が的を射ていて、もし謙虚に受け入れ たらなにかの改善がみられるかもしれないとしても、いっさいの批判的言論は封じられます。
 ほんとうは独裁者にとってさえ、延命したいと望むなら、どんな批判にたいしてもひとまず耳を傾けるべきなのでしょう。
 ところが、自分のために健全な「処方箋
」を見ようともせず、みみざわりが悪い意見は全部却下します。
 歴史のなかで、独裁政権下では、外部からであれ内部からであれ、批判的言論は封殺され、ひとまず「金の力で黙らせる」こと、そし て、金の力がだめなら最後は暗殺という手段さえ使われてきました。
 
 あなたがもし「御用学者になりたい」と思ったら、自分が仕えるべき独裁者などのためになるかどうかだけで行動してはなりません。
 「こういう提案をすれば力になれる」とかではなく、どんなに悪いと判断、察知できたとしても、たとえそれを理路整然と説明できたと しても、どれだけ優秀なプレゼンテーションが用意できたとしても、心のなかに全部秘めていなければなりません。
 そして権力にたいして批判的であることを明かしてはなりません。御用学者になるための最低の判断基準は、提供した情報が権力からみて利用できるかどうかだ け。結局誰のためになるのかなどはどうでもいいのです。
  いえ、わたしは、ここですべて皮肉でいっているのです。

 これは、「社会的地位」を獲得するために歴代カルト教団がとってきた方法の一つでもありました。教団が社会から排除されるという憂き 目をみた場合、生き延びるために権力に媚び、権力側に食い込む必要があったからです。
 現行では、統一協会(教会)や創価学会。
 いえ、あのオウム真理教でさえかつて「自由」「平和」を看板に入れていた頃もあり、政治権力に寄生して生き延びようとしていた頃、 高学歴者たちを集め、「御用学者」を養成していたのは明確なのでした。幸福の科学も然り。将来「完全な乗っ取り」を見据えていたとし ても、戦略として、とりあえず寄生からはじめるのだとしたら、筆頭に上げられるのは「御用学者の養成」です。

 問題点を的確に理解できるとか、独裁者のため考えられるかどうかではなく、完全なイエスマンになれるかどうか。
 とうぜんどれだけ強い「良心の声」があっても、そんなものにコントロールされず、権力者のイエスマンに徹した行動ができるかどう か。
 批判を受け入れることが良い結果になるというところでいえば、江戸時代を含む日本史のなかにみられる「目安箱」。民からの批判的意見にたいして、謙虚に耳を傾けられるかどうかは、自己存 続のために有効な道筋があると考えられてきたという証拠があるのです。
 権力が腐敗し、国が滅びるひとつの顕著な兆候は、「自分にとって都合の良いことを言ってくれる学者だけを侍らせはじめ」たときで す。批判を受けたり反省できないところ、現在を見る力も失われます。
 念を押すまでもなく、現在の安倍政権には疑似独裁政権の傾向が強く、謙虚に自分への批判を受け入れる態度が欠落し、自分にとって都合の 良い意見を言ってくれる学者だけを集めているのだとしたら、学者の良心に基づいて、ほんとうに日本国のことを憂え熟慮した意見なの か、政権にとって耳障りのいいことだけしか言えないイエスマンなのか表向きだけではわかりにくいでしょう。
 その国に本当の自由があるのかどうか判断するための指針があるとしたら、「健全な批判に耳を傾けることができているかどうか」というところです。いい かえれば独裁政権下では、政治にたいする批判が許されず、良心を裏切って政権に取り入れるかどうかだけで“のし上がろう”とする世相 が跋扈するようになるのでした。
 具体例は省略しますが、「正義や自由を守ろうとする」とき、独裁権力から厄介者扱いされる憂き目にあうのを覚悟しなければなりません。
 「御用学者」のメンタリティーに立つと、おそらく自分たちのように権力に媚びない意見が「幼稚」に見えるでしょうし、「権力に媚びるためのわざを磨 こうともしない愚か者」にしか見えなくなってくる筈です。

 歴史は、歴史を謙虚に学ぶものにたいして、「正義」とは、たとえ見えなくても、水や食物のように尊ばれなければならないと教えてく れます。
 反対に、正義が廃れたところには文明の荒廃と未滅亡の道があったとも学ばせてくれます。
 あえて「歴史学」といえば、その学者が「御用学者」の生き方を是としているのかどうか。「御用学者」として、実際に政府に採用され ているから「悪」であるとか決めつけることはできないでしょう。回りくどい云い方ですが、そこに真実が含まれていないというわけでも ないからです。
 真実を知っているか知らないかでもなく、権力側に都合よく、何を言えるか・・ではなく、何を言わないでいられるか、御用学者には、 いわば忖度力が必要。良心の声などに従ってはならないのです。
 アベ政権のような疑似独裁政権もいつか終わりの日をむかえます。そのあと、国民のなかに、ほんとうの正義と自由を見極め ようとする世相が育まれているのかどうか。いつも国民の声に忖度できるような政権が実現できているのかどうか。
 わたしは、ほんとうの意味の「正義」が生み出されたところにしか人の幸福が育まれることはありえないと考えているのです。