Tokyo 2020年4月19日(日)
         

デボーションノート 使徒言行録8章17-24

 ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを 見、金を持って来て言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」する と、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこ のことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦 していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」シモンは 答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」

サマリアのシモン(3) はじめの一歩

 何でも金(かね)。金、金、金さえあれば何でもできる・・・。地位でも名誉でも、知識でも能力でも、金さえあればどんなものでも手に入るとかい う考え方は、巷のどこにでもみられるでしょう。まさに「金銭を愛することが、あらゆる悪の根」(テモテ書)です。
 このとき、サマリアのシモンはすでに洗礼を受けた直後であり、キリスト者の仲間入りをはたしたばかりでした。
 使徒たちが按手をおこなうと、それによって、あきらかに聖霊を受けることが周囲に知らされました。
 「神のみ業の総体」はほとんどわからないし、人が気にもとめないでしょう。そんなの気にしなくても心配せずに生きていけるからです。科学者や専門的知識を探求する方がほんの一部を垣間 見るだけ。そしてたいていの人は見えるところでしか認知できません。
 神の業の総体についていえば、人には、ほんの一部が知らされるだけ。それでも、ごく限られた時と場合において、シモンが見たよ うに、人の目にも顕著な「み業」としてあらわされることはあります。

 わたしは子どもの頃、日本でクリスチャンを増やしたいというなら、神はどうして「目に見える奇跡」のようなことをたくさん示さ れないのかと思ったころがあります。
 奇跡的事象により、たくさんの人が福音に引き寄せられ、救われるためのきっかけがつくられたらどれだけ良いかと思ったことがあ ります。
 あえて理由があってそうされないのです。
 神はそのような「超自然的現象」を引き起こされません。ほとんどの信徒は、そのような奇跡的事象に動かされたというとこ ろを通らずに、別の方法を用いられているように思われます。そして、数は少ないでしょうけれど、そしてそのような奇跡的事象を経 て信仰の道に入ったとしても、公言するのは許されないだろうと思います。
 なぜでしょう?
 それは、多くの場合・・、いえ、ほとんどがサマリアのシモンのような間違え方をしてしまうからです。
 もし、地上でただの一度たりとも奇跡を見なかったとしても、キリストが墓から蘇られたように、信じるものが死んで復活するので あれば、それこそが最大の奇跡。「復活の奇跡」のまえに、地上の細かな奇跡的事象など取るに足りません。
 今の時代に、かつて使徒の時代に示されたような方法をとらない理由はひとつやふたつではないでしょうけれど、シモンのように 「お金の力で主の業を手 に入れられる」とか思い込んでしまう輩(やから)があらわれるからかもしれません。
 敬虔を利得の手段とみる人々や、見えるところは敬虔そうにみえても内側は利権で固まった腹黒い偽信徒は、初代教会のなかにも散見さ れ、使徒パウロの嘆きのネタともなっていたのでした。

 人はお金があると何でもできるかのように思い込んでしまうのです。
 反対に、お金がなくなると何もかも失ったかのような不安に陥れられます。
 シモンは「金で神の賜物が買える」と錯覚したのは、シモンが入信したばかりで未熟だったからだとすぐわかるでしょう。
 
キリストを信じていても、心のなかではキリストを「王座」に見据えていない信徒が少なくないのです。
あなたがキリスト者であれば、「なんだかんだ言ったって、金だよ。金!!」という金銭礼拝が心のなかに完全にないと断言できます か。
 建前はどれだけりっぱなことが言えても、先立つものは金だ。信仰なんかではない・・・とか。

 「心の王座」といわれます。
 ただし、心の中でキリスト以外のものを「王座」に仰いでいる状態が完全に実現できている人はおそらく非常に少ないのだと思いま す。いえ、いずれ、たとえば死の床に至ってようやく「キリストを王座に」みる人は多いでしょう。
 いいかえれば、死の時まで信徒の人生とは、世の柵(しがらみ)を引きづりながらの状態なのかもしれません。子どもはお金や名誉 や地位などがないので、ほんとにあるがままですぐにキリストを受け入れることができるのでしょう。
 シモンが金で賜物を買おうとしたところに着目すると、「お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られている」といわれて当然でし た。それでも、シモンが、今自分のもっているお金の力で、たくさんの人を助けたいと思っていたのであれば、腹黒いとまでいわれな かったかもしれません。
 「慈善の心」さえ世の栄誉とか自己賛美が残存していたら、自分の徳を引き出すための「投資」にしかみえなくなりますから、古い 生き方を捨てて、「すべては新しくなった」とされる全く別の価値観ののうえに人生を立てあげるべきでしょう。
 信じていない頃もっていた古い価値観に何の変更が加えられないまま、ただ表向きキリスト者となっただけで、すべての行為が主の ためではなく、自分のためでしかないというクリスチャンが・・・残念ながらおられるのも事実なのです。
 考え方全部がキリストのものとなっているのかどうかまで、洗礼を授ける教会や司式を担当する教職者が見通せるわけもありませ ん。聖霊の働きによります。ルデアのように洗礼を受けたとき、すでにかなりのところにまで到達できている人もおられ、サマリアの シモンのように不完全さを絵に書いたかのような輩もいます。
 地上の教会を構成しているのは、そのような多様性に満ちた罪人たちの群れなのであり、その多様性の根拠が、牧師の人柄とかメッ セージが良い悪いだのにも依存せず、ひとえに神なるキリストの寛容さに根ざしているところに着目したいのです。
 教会は高学歴の精鋭が集められたエリート集団でも、サッカーAチームでもメジャーリーグでもないのです。

 ペテロとヨハネからの警告を受けてシモンは「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」 と語りました。聖書記者ルカはこれから先シモンがどうなったかについてのコメントを入れていません。わたしは、シモンがペテロの 叱責を受けて「体裁をつくろった」だけだとは思われないのです。
 その場しのぎで乗り切れるとか、とりあえず見た目を繕うとか・・・シモンがそれまでとっていたであろう対処方法によらず、「人 の見ているところではなく、心をご覧になる神」に全面降伏したのであり、それこそが人の手によらない聖霊の業だったのではないで しょうか。
 シモンは期せずして自分の弱さが曝け出されたので、予期しないで信仰のはっきりした「一歩前進」をみたのではないでしょうか。