Tokyo 2020年4月10日(金)
         

 デボーションノート 使徒言行録8章9-13 
 

ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。 それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。 人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。 しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。 
シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。

(2)シモンが洗礼を受けた
 サマリアのシモンを「信徒」と呼べるのかどうか。信仰告白が明確でないまま、「みんなが洗礼を受けている」とかの理由で、洗礼 を受けるに至ったのではないか。少なくとも、「信じて洗礼を受けた」とあるにもかかわらず、使徒たちが手を置くだけで悪霊が出て いくのをみて、強い憧れを感じ、お金でその“能力”を手に入れられると考えたとあるので(19節)、「信念に従って何をするか決 める」のではなく、いわゆる風見鶏のように、周囲の空気を読み、自分のための一番よい「座席」を手に入れるのをねらう。容姿端麗 かどうか別として、言うことはもっともらしく、自分こそ偉大だなどといっても、それがどれだけ嘘っぽさを醸し出していようとも、 目の前に魔術を見せられたら魅了させられる。
 魔術師シモンは、大道芸の対価としてかなりの現金を稼いでいたものとみられます。
 むしろ、今で言う「世渡り上手」のようにもみえます。けれども、親がその子どもたちに「サマリアシモンさんを模範にしなさい」 とは教えなかったに違いないでしょう。・・・いいえ・・・ここはあくまでわたしの想像の域を出ないのですが。
 ここで「魔術」と呼ばれる技がなんであったのか、それが今日の科学的な知識があれば「ネタ」がバレてしまうものだっのか聖書は 詳しく記述していません。ただわかっているのは魔術はシモンが「自分を優れたものだ」と公言できた唯一の理由であったことと、 人々が魔術に驚き、心を奪われていたところでした。
 人の心と体に癒やしを与えるのが主イエスさまの癒やしであったのであり、使徒たちがおこなった癒やしもまた「奇跡」に違いな かったのですが、「シモンの魔術」と区別されるべきは、フィリポのそれが、創造主の力を起源としていたところであり、心と体に癒 しを与え、最終的に創造主なる神に栄光が帰され、他方の最終的にシモンの財布に収まる金を生み出していたところでした。
 シモンにとって、「自分が偉大な人物」だと公言するのは、自分を本当に偉大だと思っていたからではなく、それさえひとつの「お まじない」のようなものであり、人を驚かせ大道芸をしてみせたのも、金が目的だったとみられます。
 聖書を読んで、驚かされるのはそのようなシモンについて「シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらし いしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。 」というところ。
 シモンの受けた洗礼が「教理とか聖書知識とかをじっくり学び、十分な準備をしたあと」に満を持しておこなれたわけではなく、 「教理など、細かいことは何もわからないけれど、とにかく自分はキリストの旗のもとに身を寄せた」ことです。
 知識が曖昧どころかほとんどあやしいものだったし、ほぼないに等しい。それどころか、自分の意志かどうかさえ曖昧、ほとんど付 和雷同みたないなノリで入って、入ってからあとで洗礼を受けたと気がついたくらい。
 少なくともシモンの場合、「心が浄化されたので洗礼を受けられた」とか「知識が試験点にパスした」のでもないのです。

 かなり厳格な「洗礼準備会」を設定している現代キリスト教会でシモンのような人があらわれたら、「これまでの行いや考えを悔い 改めて、はっきりわかるようになるまで洗礼は延期」みたいに扱われるかもしれません。
 「自分はりっぱな人で、クリスチャンになるにふさわしい」といっていても、少なくともすぐに洗礼を与えるなどは避けるに違いあ りません。
 わたしは、たとえ「信じたのですぐに洗礼をうけたい」という申し出があったとしてもその場ですぐに洗礼を受けさせるのではな く、教理問答を学ぶなど基本的な学びを前提とする改革主義の教会に属していることを感謝しています。それは本人のためばかりでな く、洗礼準備会は、洗礼を受ける人ばかりでなく、その人を教会員として受け入れる側の心の準備ともなるからです。
 それでも場合によってですが、教職者が「その場ですぐに洗礼を受けさせる」と判断するのはありえると思います。
 (末期医療における病床洗礼や、死刑囚への洗礼ばかりでなく、今日の教会で実際にはほとんど実例はみられないでしょうけれど も、原則としては日曜礼拝の場でも可能であると考えます。)
 
 サマリアのシモンにみられたのは、フィリポの説教をきいて「自分もキリストの旗のもとにつく」と決めたこと。
 いったいそれだけで洗礼をうけていいのかという疑問が残りました。
 それでも「洗礼準備会」が必要なのは、洗礼において、神の前での誓いが伴うのであり、信仰告白と同様に、知識が裏付けられてい なければならないと考えたからです。
 半年かもしかしたら一年くらいかけて準備会をしたあと「洗礼」と、サマリアのシモンのように宣教の場で、すぐにその場で洗礼を 受けた「洗礼」とになにか違いがあったのかというとこでいえば、「違いはない」と結論づけられます。

 十字架の上で、隣りにいた主から「あなたはパラダイスにいる」と告げられた強盗は洗礼を受けていなかったでしょう。(内村鑑三 のような洗礼無用論を無理にここから引き出せるのかもしれません。むしろ聖書全体からいえば、洗礼無用論など出てくるはずもない のです。蛇足ですが)
 聖書の基準においていうと、教職者の立ち位置で判断し、「ただ信じる」といっただけで、すぐに洗礼準備会もせずに、洗礼を授け たとしても、ありえるのだと考えます。長老会や他の信徒がどう感じるかとは別に・・・。
 蛇足で、洗礼とは違うのですが、たしか、大村晴雄長老が、お若いころ信仰告白をされたとき、佐波亘(さばわたる)牧師は「佐波 先生は、ろくに準備会などしなかったよ」とおっしゃっていたのを覚えています。
 洗礼とは、要はキリストの側につくのかどうか。入学試験や入社試験でも免許を取得するためでもありません。
 洗礼に自覚的信仰や知識が裏付けられていなければならないのだとしたら、歴史のなかのすべての「幼児洗礼」は無効になってしま うでしょう。生まれて間もない幼児たちは、経験も知識も自覚的な意図さえなく、先行して働く神の恵みに委ねられてきたからです。
 どんな過去を引きずっていても、健康でもどれほど病んでいても、どんな国籍でも、男でも女でも、幼児でも老年でも洗礼を受ける ことは可能です。
 たとえ知識の不完全さが残っていたとしても、どれだけ大きな罪があっても、たとえ古い生き方が温存されていたとしても、そして シモンのようにただの付和雷同だけでみんな洗礼を受けるのが流行っているみたいだからだけのノリでも、「自分はキリストの旗のも とに身をおく」と言う、いわばノアの方舟のゲートに入るための認証が洗礼なのだと考えます。