Tokyo 3月26日(木)
         

デボーションノート 使徒8:1-5 


1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方 に散らされた。 2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。 3 サウロは教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。 4 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。 5 ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。 6 群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。

(1)ピリポによるサマリア伝道
 
ステパノ殉教のインパクトは、ユダヤの伝統では、なににつけても「及び腰」になるのは避けられなかったサマリア伝道への道を開きました。使徒たちからしても、サマリア宣教について、あまり良い思い出はなかったからです。ステパノの殉教の事件のあと、迫害があったからこその“アプローチ”でした。 主の宣教においてキリスト者からすると、「期せずして」とか「不本意ながら」とか・・・、むしろ時には「いやいやながら」という局面を通らされるのです。ピリポもそうだったとしても不思議ではなかったのです。人が名乗りをあげるところからではなく、主から召し出されることによるのは世界宣教における一つの原則であり、つまり“自己推薦”の結果ではなく、100パーセント主の召しと聖霊のみ業に依存するのです。
 それゆえに、自分がとても優れた能力をもっているので、この地域の宣教に一番ふさわしいとか、自分は「宣教師」「牧師」として活躍しているとかす ごい賜物があるとかを公にしている人は、聖書のなかで、聖霊に用いられた人物のなかに見当たりません。「謙遜さ」が必要というの正しいでしょう。 それは人の徳を表現するときにあえて用いる言葉であり、主の側からすると、宣教によってどんな結果が生まれようと、それを「宣べ伝えたもの」の栄光 にはさせないのでした。謙遜な人とは、どのような場面でも、人に栄光が帰されるようにではなく、神の栄光を願い、それを実現できる人です。
 ステパノ事件によって各地に散らされ、乗り気になれないサマリアまで行ったのは、「逃れるためにむかった土地」というのが使徒ピリ ポを押し出していたモチベーションの一つだったことでしょう。しかし、ピリポからするとどのような場でも「宣教の地」でした。たと え、 それが監獄であっても、使徒たちは、どこでもどんな場所でも、そこで主の名を語り、そこで主のみ業を伝えることに少しの躊躇もなかったのです。
 サマリアは、主の弟子たちにとっても「一番遠い場所」だったと思われます。主の声にさえ耳を傾けない「頑固さ」がすでに証明されて いたからでした。(ルカ9:51〜56)弟子たちは怒りをこめて「天から火が下って滅ぼすように祈り求めましょう」といい、主はそれ を厳しく戒められた(9:55)ときの心。それがピリポによる「サマリア伝道」として結実したといえます。
 サマリアは、ユダヤ民族の傍系でありつつも、離散の民の憂き目にあい、周囲から隔絶された場所で聖書を継承していましたが、ほぼ異 教とのシンクレティズム。ゆえに、正統的なユダヤからとうてい受け入れられる信仰ではありませんでした。
 サマリア伝道が特殊で困難だったのは、「聖書のことを何も知らない」更地への種まきではなく、「すでに聖書をもっていると思い込ん でいる人々」といういわば“雑草だらけの荒れ地”への宣教だったからでした。
 プロテスタント正統主義を継承する人々が陥りやすい排他主義があり、つまり、正しいものを悪いものから守る護教的態度の裏腹であり、正しい動機をもっていたとして も、ディフェンスに身を固めて閉じられてしまうこと。たとえば、オリジナルのサマリア人などが現代の正統主義プロテスタント教徒の前にあらわれとして、ただちにおもい浮かぶのは警戒心。宣教など取りつく島さえなど見当たらないでしょう。ことごと左様に、サマリア伝道など思いもつかないでしょう。
 だからこそ、ピリポの宣教活動に「ピリポの伝道者として凄さ」だけを読み取れないのは、ステパノ迫害事件の余波、離散させられたな か、徹底的 に「聖霊の意志」が働くようなしつらえがなされていたところです。ユダヤ正統主義からするとサマリアに伝道するなど思いつくことすら難しかったでしょう。 思い出してみてください。使徒たちが復活された主からきいた言葉を。サマリヤは地の果てにむかうためのステップでした。
 「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果て にまで、わたしの証人となります。」
 宣教とは聖霊の業です。もちろん「宣教とは教会によってなされる」という定義にわたしは全面的に賛成できるのですが、どんな人を用 いるかは主のお考え、そして働きのために人を用いられ、必要な賜物を引き出すのも聖霊のみ業です。
 宣教は主のみ業であり、教会を通じてなされるとしても、それは人に栄光が期されるべきではないという原則を読み取らなければなりま せん。

 やがて宣教の第一線にたつパウロは、このとき迫害している側にいました。聖書を読む人は、サ マリヤ人にみられた「激変」を、やがてサウロの劇的回心の顛末にみるようになります。それも人の思いを超えた聖霊なる神のみ業なのです。