Tokyo 1月19日(日)
         
     
「財産」もしくは蓄財のこと
  

 個人が財産をもつことについて、さらにはどれくらい財産をもつかにつ いて、もし聖書の考え方を尋ねるなら、きわめてシンプルであり、あまり面倒な議論が入り込む隙間はないかと思われます。
 すなわち、個人が資産をもつことについて、それはどれだけの財産を所有しようともそれは「自由」であり、むしろ十戒にも、「隣人の 財産をむさぼっては(ほしがっては)ならない」とされているのであり、共産国家のように個人の所有を国家権力が禁止するようなことは あってはならないのでした。それが、一般社会にもとめる「キリスト者の態度」であると考えます。
 個人の財産を制限するようなすべてのものに抵抗しなければなりませんが、国に支払う税金について「カイザルのものはカイザルに、神 のものは神に」と、その使われ方がどうあるかによらず、国家が税金を集めることそのものは受け入れられています。
 蛇足ですが、ホームスクーリング運動についていえば、その運動に最も抵抗しているのが「共産主義思想」です。現在の「日本共産党」 についてのことではありませんが、ただ、共産主義の立場は常にホームスクーリングに対抗してきたのは事実であり、「ひとつの教会」し か認めないローマ・カトリックが支配している国家や、クリスチャンスクール運動が盛んな地域においても、その形態に違いがあっても、 ホームスクーリングへの迫害がみられてきたのは事実なのでした。
 無政府主義者でないかぎり、「国家は税金の名で私有財産を盗んでいる」と聖書のどこかに読みだそうも無駄な努力に終わるでしょ う。納税それ自体は、神の心に逆らうものではなく、主権在民のありかたにふさわしい税金の使われ方がしているかどうかが一番問題になるところなのです。

 信徒によるコミニティーにおいて「共同生活」がみられるのを受け入れられますが、同時に、個人においてお金やものを所有したり管理 すべきことを勧められ、どれだけの財産をもっていたとしても、所有していることそれ自体が罪であるとはされていません。
 
 ところが、聖書を虚心に読むとき、私有財産が生み出すものは必ず「幸福」を生み出すという世が生み出すであろう幻想は真っ先に打ち砕かれるのです。
 「財産があれば幸せ」。「幸せはお金で買える」「お金は人を裏切らない」などという「虚構」は粉微塵に打ち砕かれるのでした。
  アブラハムは、当時でも大富豪の一人であったに違いありませんが、あまりに多くの財産をもっていたことにより、ロトとの間に諍い が生まれ、分かれて住むようになりました。これはひとつの例ですが、財産は人を幸せにするより、たくさんの諍いや争いや戦争にさえ見 結びついているのでした。
 歴史のなかでソロモンほど冨に囲まれた人はどこかにいるでしょうか。しかし、キリストは「栄華を極めたソロモンさえ、野のユリほど に着飾ってはいなかった。」と語られました。
 心の安心のために蓄財するというのでしょう。お金の保障がつまり安心の種だというのですね。いえ、保険制度に反対しているのではあ りません。むしろ、近代の保険制度は、近代国家の憲法が「国の暴走を止めている」のと同じように、「人生が暴走する」のを食い止めて くれる“装置”のひとつになっているのだとわたしは考えます。
 あなたは、札束が多ければ多いほど、その人は幸せであるに違いないと思いますか?
 「“これ”で死ぬまで安泰」という言葉を何度かききました。“これ”とは「持家」であったり、一生かかっても使い切れないお金とか 枯渇しない収入源だったり、寄らば大樹の陰みたいな権力だったりするのでしょう。
 
 どこに心の安堵を求めるのかは、それぞれ人によって異なるでしょう。“宗教”が違えば、それだけで千差万別です。しかし、こと私有 財産についていえば、もっているものが多ければ多いほど安心感が増大するという考え方が間違っているというところは、おそらく啓示の 光がなくても、うすうす気が付いておられる日本人はとても多いのではないかと考えます。
 心が「財産」に支配されていないとしても、それではどこに心の安心の源泉を求めるのかというところ。これも千差万別といえるのです が、わたしの場合、「どれほどの財産に囲まれても、それに心を支配されなければ良い」といえるほど強い心ではありません。
 ソロモンのようにたくさんの財産をや妻や側女をもつことによって、彼の心は神から離れ、異なる神(偶像)に引き寄せられたのであ り、つまりは、 蓄財は、まことの神ではなく、自分の考えを実現してくれる神だけに心を引き寄せられるようになってしまうのでした。
 自分の願いを叶えてくれる神のことばだけに心を開くとか・・、
 “効果”が期待できる携帯可能な「神」を“持ち歩く”とか。
 やれやれ・・・。

 「神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ6:24)