Tokyo 1月9日(木)
         
     
聖書の女性   リベカ  創世記37章16-19節
 
  

 16  彼らがベテルを旅立って、エフラテまで行くにはまだかなりの道のりがあるとき、ラケルは産気づいて、ひどい陣痛で苦しんだ。 17 彼女がひどい陣痛で苦しんでいるとき、助産婦は彼女に、「心配なさるな.今度も男のお子さんです。」と告げた。 18 彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするとき、彼女はその子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。19 こうしてラケルは死んだ。彼女はエフラテ。今日のベツレヘムへの道に葬られた。

 
 リベカが姉のレアより、夫ヤコブにとって、好ましいとみえたため、レアを嫌ったというより、リベカのほうがより“好 ましかった”ということになるのでしょう。しかし、それはレアの外見よりリベカの外見のほうが少なくともヤコブにとって好ましかった という冷酷な事実があるのでした。一夫多妻が認められた時代に固有な“悲劇”であり、寵愛されるものと、それにたいして二次的な扱い をうけなければならなかったところに姉レアの内面の葛藤がうまれ、夫が自分より妹のラケルを寵愛しているという事実は、ヤコブに とっては日常茶飯事でも、当事者であるレアにとっては残酷な日常であり、レアが悩みのすべてを包み隠さず神に打ち明けたところ、現代 に生きるキリスト者も「どんな悩みでも、主のまえに包み隠さず打ち明ける」道があるのだと示しているのでした。

 神がキリスト者の祈りを聞き分けるとき、“例外”はありません。どんなことでも、祈り求めるべきです。
 それは、信じるわたしたちにとって、主は「父」であり、神からすると、わたしたちは息子、もしくは娘であるからです。
 
 第一子ヨセフを生んだあと、第二子の出産のとき、ラケルは死の時に瀕しました。
 そして、出産の苦しみのなか、自分を死に追いやった息子を“ベン・オニ”と呼びました。意味は「わが苦しみ子」。
 しかし、夫ヤコブは、「出産のとき、母を死なせた子ども」として末代までマイナスのイメージを残すような命名をしませんでした。
 ヤコブは、子どもをとりあげ、「ベニアミン」となずけました。「わたしの右手の子」つまり、自分にとってかけがいのない子ども」と いう意味でした。
 ラケルが苦しみのなかで、その名をつけたとしたら、それが子どもの名前になるかもしれないとなど考えなかったでしょう。今の苦しみ をそのまま言い表しただけにすぎなかったかもしれません。

 ラケルは自分の子どもに、自分の実存的な苦しみだけを背景にして名をつけました。
 上司から「お前は〜だ」といわれるとき、パワハラのような威圧感を感じるかもしれません。「お前は、バカだ」「お前なんか〜みたい だ」といわるとき、他人からそのようないわれかたをするならまだしも、親しい人から言われる言葉は、言われたほうの心を刺すのです。
 生まれたばかりの“ベニアミン”にとっては、そのような決めつけかたをそのまま名とされなかったことは幸いでした。
 他人からそのように言われるにせよ、いえ、自分で「こんな自分は〜のようだ」と勝手に納得してしまうということがあるかもしれませ ん。
 「自己評価」とは自分が自分を評価することですが、他人が勝手に決めつけるようなところでは、自分が再生できないと思われるくらい 落ち込んでしまうかもしれません。
 夫ヤコブは、「わたしの右手の子」といったとき、それは自己評価や、他人による決めつけではなく、主があなたをどのように受け止め ておられるかを示しているのだと考えます。
 主は、キリストを受け入れ、希望を託しているあなたを、「自分の右手の子ども」として扱っておられます。
 あなたは、創造主にとって、大切なひとりの息子であり娘なのです。それは自分や他人が決めつけることによってではなく、神の側から 一方的に決めてくださっている恵みの事実なのです。 


 14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と 呼びます。 16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 (ローマ8:14-16)