Tokyo 1月5日(日)
         
     
聖書語学の使われ方
 
 
聖書の原語は、旧約聖書がヘブル語。新約聖書がギリシア語で書かれました。各国の言葉に翻訳されるとき、翻訳者は最終 的に原語を底本としたり、母国語以外の、たとえば英語やヘブル語のギリシャ語訳ともいえる「70人訳」を参照しながら、読者に聖書の 真意が伝わるように日本語化します。そこで翻訳者の“日本語力”が反映するのであり、たとえば日本最古の翻訳聖書と呼ばれギュツ ラフ訳ヨハネ福音書。
  難船して漂流しマカオまで辿りついた日本人漁民があり、その協力によって日本語訳がなされたため、「はじめにことばがあった」(新改訳) は、「はじまりにかしこいものござる このかしこいもの ごくらくともにござる このかしこいものは ごくらく はじまりに このか しこいもの ごくらくともにござる」
 と、当時の漁民らの庶民の日常語と、そして 「神観」「天国観」が反映しているとみられます。
 いったい「ことば」を「かしこいもの」とおきかえることができるのかどうか。ギリシヤ語の ho logos を“かしこいもの”と当時の日本人が受け入れる範囲にとどめて偽の納得をえるのか、それとも直訳的に「ことば」と置き換えたとしても、いずれ にせよ、全く意味がわからず、当時の日本人には正確につたわらなかったことでしょう。あえて、訳語を“理解できる範囲まで意訳する か”それとも、「原語」を直訳したまま意味不明にとどめるのかは、おそらく聖書翻訳の学者のなかでも、意見がわかれるところなのだと 考えます。
 もともと、数千年前に書かれた言葉であり、はじめから現代人に“わかりやすい”はずもないのですが、しかし、ラテン語翻訳(ヴルガ タ)のみをもって聖書とみなし、しかも庶民には「どうせ理解できないから」と、読ませる糸口を与えなかったロマカトリックにたいし て、ごく普通の庶民が理解できるドイツ語に翻訳し、し かも原語から訳出した、ルターの努力は、それこそ並大抵のことではなかったと思われます。

 ローマ1章16節は「わたしは福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救い を得させる神の力です。」というところ、“力”は原語では dyunamis であり、これが英語のダイナマイトの語源であるという説明のされかたをするのをよくききました。
 ただし、パウロの時代にはノーベルの発明したとされるダイナマイトは存在しなかったのであり、パウロが「福音の力」というとき、こ れはダイナマイトと同じ語源の言葉がつかわれていると説明したとしても、たとえば現代人にとって、キリストの福音を“ダイナマイト” との関連付けて記憶されることが、どれだけパウロの意図になじむのか疑問に思われます。
 パウロの意図を現代人にわかりやすく表現したいのか、それとも説教者として、ただ自分にはギリシヤ語の素養があるとか、“あげぞ こ”もしくは“箔をつけたい”のかというあたり、原語にギリシヤ語がつかわれたときの意図が伝わるのが大切であり、ギリシヤ語の意 味は探究されるべきですが、それが聴き手に「言語分析」として伝えられることについて、パウロの意図にないことを伝えていることにな りはしないかと懸念します。
 つまり、大きな岩石など、人の手によって破壊するのに非常に時間がかかるものを一瞬でなしとける力だという意味で「ダイナマイトの 語源ともなった」というとき、パウロが「力」というとき、物理的破壊力をいったのではなく、いえ、それが含まれていたとしても、物理 的破壊力はほんの一部をさしているのであり、パウロの意図は天地創造の力であり、人の内面ばかりか外面もすべてをつくりかえる力で もあったのだとしたら、「現代人にとってのわかりやすさ」をねらう“意訳語”をあえて選ばないという選択肢もありえるのでしょう。
 聖書のメッセージが、言語学の講義のようにならないように、聖書原語の説明が、メッセージを理解するためにほんとうに必要な事柄な のかどうか、説教をつくる段階で、説教原稿をなんども吟味する必要はあると思います。
 雪をみたことがないアフリカの人々に、たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くな
る」というイザヤ書1章の箇所を説明したいと願った宣教師たちは、イザヤが意図したの は“雪”のことではな く、色としての「白さ」にあるとみて、あなたの罪は“ココナッツの実”のように白くなると説明したとされています。
 聖書翻訳の語として、「白」を 「ココナツの白」と置き換えたとは思われませんが、聖書を「まっすぐに語る」といわれるとき、どのように伝達されるべきかというところが参考になりま す。
 たとえ見たことがなくても聖書が「白さ」を「雪」になぞらえているという文字通りの意味を学び、そして実際に映像や絵や旅などして “雪を見る”とかしかできないとしても、想像の産物としての寓話ではなく、喩でさえ、常にリアルな事物が用いられていると悟れるのだ としたら、それはそれで意味があるのと思われます。あえて“わかりやすさ”を追求しないというのもひとつの道なのではないでしょうか。
 どのような伝わり方をするのか、説教者の端くれとして聖書釈義と解釈には細心の注意が払われるべきだと考えます。