Tokyo 12月30日(月)
         
     
デボーションノート 使徒言行録5章
 
 
公園づくりの仕事が事実上の正月休みにはい り、日常おろそかにしている掃除や片づけなどのため、そして途中で止めている読書のために少しまとまった時間が与えられています。

 使徒言行録の5章、ガマリエルの演説については、「ガマリエルの福音」と題して、いつだったか・・、かなり前になりますが、日本長 老教会の大会会議の礼拝説教において語らせていただいたことがあります。

 ガマリエルは「民のすべてから尊敬されていた」とされ、ユダヤ出身ながら回心してキリスト者となった人々も、その例外ではなかった と思われます。
 パウロは州総督のフェストウスに弁明したとき、(使徒26:24-35)、「パウロ、おまえはあたまがおかしい。学問のしすぎでお かしくなったのだ(共同訳)」と罵声を浴びせられました。新改訳の「博学があなたの気をくるわせている」は、やや翻訳調で、共同訳の ほうが、もともとのフェストウスの実際の口調に近いのかもしれません。「若い頃の学問のしすぎで、おまえ! とうとう、あたまがおかしくなっ たな」といわれるくらい、パウロがガマリエルの門下生であったところから、「学問道場」としてのガマリエルの学問のクオリティの高さがどれほどのもので あったか推察できるでしょう。

 ガマリエルは、使徒たちへの煮えくり返るような殺意に燃えた議員たちをまえに、演説をしました。

 「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上が り、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住 民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい、あの計画や行動が人間から出たもの なら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅す るだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。 一同はこの意見に従い、使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。」

 
怒りにまかせた行動に任せるとろくなことがないと知っていたこと。そして、聴いている人々が理解できる具体的な事例を あげているところ、経験値を大切にして大多数のなかに合意を紡ぎだそうとしているところ、そして、議員たちが「神への熱心さ」を誇り にしているところに働きかけたことなど、すべてが、いわば計算された提案だったのであり、“学者ガマリエル”としての面目躍如。“さ すが”といったところです。
 しかし、導き出した結論は、むち打ちの上での解放であり、当時のむち打ちが実質死刑にも相当するような極刑に近いものだとされてい るところからすると、ガマリエルの意図には「使徒たちを生かしておきたい」はなく、内部の混乱を避けるという政治的動機がみられ、い え、それだけだったともいえるのでした。使徒たちが死ぬかもしれないとわかってながら、それでも、議員たちに燃えていた殺意の炎を、 いったん弱火にしただけでも、それをガマリエルの“貢献”とみていいのかというところ。
 ガマリエルは主の福音を守ろうとしたのでも、理解しようとしたのでもなく、「触らぬ神にたたりなし」と同類の提案をもって、怒りの 炎を弱めようとしたのであり、ガマリエルにやや忖度した言い方をするとしたら、それはそれで“作戦”だったのであり、本心はどうだっ たのかというところとは別に、使徒たちがその場で殺されなかったのも、神のご計画であり、ガマリエルは、使徒たちを守るとか求道心が あったかなかったか不明であり、ただし、その提案そものが主のご計画に組み入れられいたのはあきらかだったのでした。
 神に従う結果ではなく、神の名を語りながら、結局、自分や自分たちに火の粉がかからないような逃げ道を指示したとき、ガマリエルは “神に従ったのではなく、神の名を語りながら、自分の名声や地位、そして自分をより安定させてくれる場所に身をおいた”ということに なります。
 聖書の福音には、主イエスの福音しかないのであり、「ガマリエルの福音なるもの」は福音もどきであり、福音そのものではありませ ん。
 ところが、主の福音を「自分のステータス」「自分の安定性」「悠々自適なる人生」を保障してくれる傘のように考えているキリスト者 は、実質的にキリストの福音ではなく、「ガマリエルの福音」に縛られているのです。
 いえ、そのような信仰生活をおくったとしても、救うのは神であり人ではありません。
 けれども、「ガマリエルの福音」はキリストが示された模範とは異なります。いえ、似て非なるものだといわれるべきでしょう。

 主は、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらには自分の命までも捨てて、わたしのもとにくるのでなければ、わたしの弟子に なることはできない」(ルカ14:26)といわれ、「誰でもわたしについてきたと思うなら、自分を捨てて、自分の十字架を負い、そし てわたしについて来なさい」(マルコ8:34)
 それゆえに、主よりも家族が大切だとか、主よりも、妻、子が大事だとか。そして「自分の命を守るのが神に従うより大事」に留まると ころ、キリストが示している弟子としての人生ではないのです。
 あなたは、この世の名誉や豊かさに憧れ、“本を書いて名を挙げる”とか、有名な人になるとかに憧れていますか。
 いえ、実際に、賞をもらったり、たくさんの読者がいる書物がもつ影響力を否定するつもりは毛頭ありませんが、しかし、あなたが、生 涯の目標を世の人々の憧れる名声やお金の安定に心を留めているだけなら、キリストの弟子になるための道には、その入り口にさえ到達で きません。
 パウロはガマリエル門下の学生だった頃のことを「塵と芥」だと断言しました。(ピリピ書)
 いえ、神が摂理において、人に経験や知識を与え、地位や個人の財産を与えられたとしても、キリストに従うものは、「金、名誉、地位 など、世が与え保障してくれる安定した生き方」を優先しないようにされるのではないでしょうか。
 弟子たちはむち打ちの刑を生き延びたあと、「イエスの名のために、辱めを受けるものに足るものとされたことを喜んだ」(5:41) のでした。
 背中にむち打ちの傷が生々しく残った状態。それでもなお喜びに満ちていた弟子たちの様子から、以下のメッセージが伝わってきます。
 あなたの信仰は、この世の価値観から完全に解放されていますか・・・。
 人に従うより、神に従うべきです。(使徒5:29)
 誰でもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨てて、自分の十字架を負い、そして わたしについて来なさい。