Tokyo 11月26日(火)
         
     
一番偉い人

 キリスト教会には偉い人とか偉くない人などの区別や差別はないはずなのですが、来日している“ローマ教皇”、その人柄の良さは別と して、キリスト教界の代表であるとか、“トップ”などというみかたは正しくありません。
 ローマカトリックの内部で、教皇を最高位においているだけであり、創設者であるキリストは人をそのように区別しませんでした。罪を 継承しているすべて人は、どこかに差別化をもとめ、自分が人より優位にあることに安ど感を見出そうとするものです。
 職業にも良し悪しはなく、すべての仕事が尊いといえば尊い。(俗に“女”を売る商売。それが罪であるというのは明確なので、社会悪 の一つであるとみられたとしても、キリストは「淫行の場で捕まえられた女」にたいして、“これから罪を犯してはらなない”と語られた ものの、死罪にあたるという周囲の意見をはねのけました。)
 プロテスタント教会は、キリストを一番偉いといっているのであり、自分をキリストの代理人などと宣言する教皇制度を認めません。

 あなたがたのうちで一番偉い人は、仕える人になりなさい。(マタイ23:11)
 
 ・・キリストでさえ、一番偉い人の存在を認めているのだから、“偉い人”がいるということだとか・・・文脈からいえば、偉い人がそ の偉さに“泊”をつけるための方法を教えておられるのではなく、人の心に浮かぶ支配欲から出る差別化にたいして、高見から見下ろすの ではなく、“弟子の足をあらう”キリストの姿を見習えと語っておられるのでした。

 もう一か所。ここから、天国にも差別があると読んだ人がおられました。

わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではなく、定められた人々に許されるのである」(マルコ1040)

 天国では、“みんな平等”ではなく、キリストの右と左に座れるような人がいたり、そうでなかったりする・・・つまり、そのような差 別化は天国にもあるということなのでしょうか。イエスさまは、弟子たちのなかのヤコブとヨハネが「あなたが位におつきになった暁に は、わたしたちを右大臣と左大臣に任命してください」と申し出たところで語られたという文脈があります。ヤコブとヨハネの考え方が世 俗主義にとどまっていたのが問題なのであり、俗な考え方を引きずったまま、天国を勝手に解釈してはなりません。ヤコブとヨハネは殉教 をしたのですが、世俗の価値観からみれば、信心を貫いた結果の“見方出たさび”。しかし、天国の視点からみたら、殉教をとげた使徒た ちがどれだけの大きな報いを受け取るかとみるべきでしょう。“天国ではいつも逆転がおこる”というのも間違えた判断基準で、正しい聖 書解釈を妨げます。先のものが後になりえますが、それは人の考えを裏切るのが目的なのではなく、主の心だけが成し遂げられるからであ ると考えます。
人の期待に応えるのも天国ではないし、人の期待を裏切るのも天国なのではなく、神のみ心だけが実現しているところなのだと考えます。
 「天国にも上下関係がある」という考え方そのものを、聖書から引き出すことはできません。それがあったとしてもなかったとしても、 人のあずかり知るところではないからです。

 大会会議の“議長”が一番偉い人と勘違いしていませんか。そのような誤解を招かないように、議長職を“輪番制”にしているプロテス タント教会がありましたが、賢明とされるべきです。議長職には個人の能力やスキルの違いが求められないからです。
 しかし、、特定の賜物を得た一人の人が数年ものあいだ長く委員長の職に就いていたとても、もしかしたら嫉みや妬みにかられて、交代 を求める声があるにせよないにせよ、それ以外に、ことさらそれを問題にするのはいかがなものかと思います。
 あくまで委員長が名誉職ではなく、主の教えに従った「仕える仕事」であるのだとしたらですが。

 蛇足かもしれませんが、このような主イエスさまの教えに従って、人と人のあいだに差別を植え付ける天皇制には反対です。
 あたりまえのことですが、令和天皇やいわゆる平成天皇ご夫妻もともに、優れて良い方であるというのとはまた別の問題です。