Tokyo 11月17日(日)
         
     
女性教職についてのあれこれ

 ホームスクーリングへの批判のひとつに、「家で女性が子育てに専念して社会参加から身を引くのは女性の社会参加の妨げになる」とい うご意見があり、有効な反論が見出されない状態だったので、ひとまず、「聖書の女性」という観点から聖書を紐解くようにしてきまし た。
 聖書をそのような視点で学びなおすと、全能の神が人を愛されるというとき、男も女もないということがよくわかります。それがいわゆ る男女同権思想とどのように区別されるか、もしくは大きな違いがあるのかといえば、神の創造の業としての「男性」と「女性」は、いず れもすばらしくつくられているのであるし、男女平等論とそれに対するような男女の違いを「差別化」の理由とする、・・・あえて哲学的 視点といえば、神に対して「男女同権」を主張するスタンスとは、見える反目とは別に、見えないところで思想的同一根をもつのだといえ るのでした。つまり、神のご計画によってつくられた「性」なのか、ひたすら神を想定に入れない偶然性という概念を神格化したスタンス に立つのかの違いははなはだ大きく、「男女同権」といっても、言葉のつかわれる文脈から判断しなければならず、教会のなかで、たとえ ば女性教職の課題で神学的に聖書を根拠にして男女同権をいいはじめるときでさえ、異なる思想に基づいて言われているのか、ほんとうに 聖書がもとめているところに準拠しているのかどうかを精査しなければならないと考えます。
 あれこれ理屈っぽいことを述べましたが、結論として、ホームスクーリングについていえば、とくに幼少期において、子どもを育てるた めの親子の時間は、子どもの生育にとって絶対に必要であり、さらにいわゆる学童期においてさえ、学校が親と子を関係にかわることはで きず、学びや成長において親子関係がいかに完璧に備わった「アプリオリ」な能力であるのか悟らなければなりません。
 学校についていえば、母のふところから子どもたちを「奪い去る」側に「学校」があると認識されなければなりません。もともと、学校 は親の代替ができないのです。それを承知の上でおこなわれる国家による洗脳が、とくに学童期における「学校教育」だと考えます。
 それはそれで、別の議論。「聖書の女性」の学びから浮かび上がるひとつの論点は、「女性教職」「女性長老」の課題でしょう。
 わたしが教職籍をおいている日本長老教会の大会決議として、女性教職ならびに女性長老をおかないという結論が与えられました。
 もし、この議論を「フェミニスト」の立つヒューマニズムの視点からみるとしたらとんでもないアナクロニズム(時代錯誤)であり、 “ガラパゴス化したキリスト教”と揶揄されるに違いないでしょう。
 このような批判のおおもとのルーツは、伝統的キリスト教がさまざまな議論のなかで「進化論」が生み出す架空の時間論を受け入れてし まったところに起源があります。聖書を文字通りではなく、“象徴的意味”とみなすという「作り話」を挿入するようになったのでした。 聖書を文字とおりに読まれなくなるというところでは、「聖書記述」について、それは「事実」ではなく、事実の解釈としての文学的な装 飾があったものとみなすのであり、文字と事実を切り離すやいなや、「事実は別にある」というのがいつのまにか「事実認識」そのものに 入れ替わるのでした。
 すべては人の想像のなか、頭のなかだけの「事実」。・・であるに違いないで覆われていくのでした。
 進化論とフェミニズム運動を直接に結びつける「点」を線」で結びつけるかもしれないものはいくつか散在してるものの、表に出ている わけではありません。しかし、パウロ書簡にでてくる「女性論」をアナクロニズムとして一蹴しなければ、女性教職論は「論」そのものと して成立できないのだとわたしは考えます。
 パウロの言っていることは“時代”に制約された限定された言い方であり、いろいろな社会的背景が変化した現代においてはすでに「時 効」となった考えであると。つまり、そのような考え方で聖書を読んでしまうと、「今の時代には過去の産物であり、聴く必要のない聖書 箇所」が数限りなく生まれてしまうのです。
 あなたは如何思われますか。