Tokyo 11月11日(月)
         
     
「技術革新」がもたらすいくつかの課題

 テクロノジーの改善や変革によって、人々の暮らしは昨日より今日の方が良くなる。
 いえ、今から数百年後には、思いもよらないくらいの“快適で便利な生活”を送ることができるという楽観主義は、産業革命の時代にみ られ、そしてその楽観主義の大半が“幻想”であったことは、数度の世界大戦によって、さらには工業地帯においえる環境汚染問題において、かなり前から指摘さ れていました。
 ノーベル賞を受けられた吉野さんの講演にも“全自動自動車”という考え方が紹介されていました。
 車の運転がすべて自動化するというところ、ハンドルやブレーキを操作しなくても、車が動かせるとか。
 自動化された車が利用する人々にとって、ほんとうに良いことだけなのかという課題は、技術革新の際たる実である原子力発電おいても いわれていたのでした。
 原発を推進する学者たちのいっていたのは、もし何かの問題が予測されたら、そこで問題を解決するための新しい技術を見出していいた らいいのではないかとうこと。技術革新への・・・悲しくなるような楽観主義がもたらす結果、過酷事故を起こした福島原発の事故完全な 収束について、放射能抑制する技術がないという悲惨が生み出されきたのでした。
 自動車運転が全自動化することによって、運転者は車についてどんな知識ももたなくても車を運転できるということになります。それ は、自動車運転に伴う危機管理能力をいっさいもてなくなるということを意味しています。
 すでに今も、オートマチック車の仕組みを熟知している人は一握り、もし、故障したらどうしたらいかなど、知っている人は全くいませ ん。ギアチェンジについてさえそうなのですから、ハンドルもブレーキも操作しなくてもいいなどとなると、ほとんどの運転手が“もし オートマ運転”について完全に無知と同じようなことが、車が動くこと全部についての無知に行き着くと、道交法さえ知らなくてもよくな るというところにつきあたります。
 技術革新がもたらすのは、便利さばかりではなく、「知性の劣化」だということが広く周知されなければなりません。
 わたしもキーボードをうっていますが、書く速さの数倍か、いえ、文字を訂正して校正ところまでいくと、数十倍の速さで文字にできる といえます。テクノロジーの勝利といいたいのですが、もし
タイプライターやラップトップPC、スマホが便利だと思っていると、電源(電池) がなければ動かないことに気が付きます。そうだとすると、ペンと紙がいかに優れているかを再発見させられることになります。
 技術革新主義は、そこで「新しい電源」を発見すればいいとなるのですが、ペンと紙のもつ底力を忘れてはならないのです。
 ハンドルやブレーキ操作を機械(ロボット)の手にゆだねることは、他人が外から操作されやすい状態が生み出されると いう意味でもあります。そのような“予想される危険”を乗り越えていけるのも“技術革新”があれば大丈夫なのだと、、原発推進する原 子力ムラの住民たちは言っていたのです。
 電気や水道やガス、それに車や電車などの近代社会のインフラを全部廃止してしまえというのは、「地を従えよ」と命じられた文化命令 の趣旨に背を向けることになるでしょう。同時に、「技術革新」は、常に人のために良い結果しか生み出さないという考え方は、結局、人 の未来に見えない墓穴をいたるところに掘ることになるのだと考えます。
 携帯電話の「技術革新」がもたらした「5G」=ファイブジーという強力な電波が、いったい人体にどのような悪影響をもたらすのか知 らないまま、技術革新への楽観主義に基づく経済原理だけが先行し、健康被害があとまわしになっているということは、すでに福島原発事 故への政府の対応にみえているのでした。
 「技術革新」という看板だけが先行し、甚大事故がもたらす悲惨な現状に何の解決を与えないまま、騙されて「ハメルーンの笛吹」につ いていったネズミたちや子どもたちと同様の結果を迎えるようになるのです。
 もしかしたら、あまり遠くない将来に、街中で“完全自動運転”の自動車に乗っている人をみかけるようになるかもしれませんが、その 人は「運転」から自由になっているかもしれませんが、“事故”の危険性からは完全に自由になっておらず、そればかりか、およそ事故に むけての危機管理という考えを全くもつ必要がなく、車を運転するという知性が全くないかもしれないとふまえておかなければなりませ ん。