Tokyo 11月10日(日)
         
     
杉並教会、礼拝メッセージノート

 わたしは同じ説教原稿の 使い回しはしないことに決めてますが、けれども、同じ個所をベースに、別の説教を書き下ろすことはあります。
 杉並教会での朝拝メッセージの箇所は、調布南教会でも同じ題名「サラの笑い」として語りましたが、つくりなおしてみると、ほぼ別の 説教といえるかたちになりました。最終的に言葉にする段階では、7割は原稿通り、あとの3割は、ジャズ音楽でいえば“アドリブ”のよ うなところ。(あとで音声をきくと、「これは聖霊が語らせてくださったのだ」と思うところが数か所ありました。杉並教会のウエブサイ トで聴くことが可能です。)
 今回、釈義の上であれこれ事前に考察した箇所がありました。

 ひとつめは、創世記18章にみえる最初の解釈上の課題としては、「アブラハムにあらわれた3人の人」。
 3人は天使であったとするコメンテーターがほとんど。しかし、19章冒頭(1節)では2人となっており、一人いなくなっている。こ のところは、アウグスチヌスが三位一体論のなかで、最初にあらわれた一人が、受肉されたキリストであったと解説しているのであり、ア ウグスチヌスは、キリストが新約の時代に限られて出現されたのではないと、旧約聖書のいくかの箇所から論じ、三位一体論の本質は、す なわち、キリスト論であり、キリストが神であるというところに三位一体論の中心点があるとみたのでした。
 アブラハムは、3人にたいして、当時の習慣にならって通例の「社交辞令」を示したのではなく、やはり、アブラハムはこの人々が 「神」と同一であるとみなし、神に対するようにもてなしたのであると考えます。見えない神が見えるようになられたというところからい えば、17章でアブラハムに語られたときは、「神の声」しかうかがえなかったのであり、アブラハムは、「見えるか見えないか」を判断 基準にしていたのではなく、つまり、見えない神だけを信じるのではなく、たとえ目のまえに神が人の姿をとってあらわれても、たとえ ば、イエスキリストのように受肉された状態にあったとしても、神として受け入れるという信仰だったのだと思われます。アブラハムはソ ドムの滅亡の知らせをこの人々からきいたとき(18:27)、全能の神に対して語りかけています。神に対してこのような、「友人に対 する」のような語りかけができたのは、アブラハムのほかにはモーセ。サムエルにたいしても語られましたが、アブラハムやモーセにたい するような扱いはされませんでした。
 二つ目は、アブラハムとサラの笑いについて。
 アブラハムが自分たちに子どもが生まれるという「み告げ」を受けたとき、神はアブラハムにたいして「なぜ笑うのか」とは問われませ んでした。(17章)ところが、妻のサラにたいしては、「あなたの妻サラは、どうして『どうして子どもが生めるのか』と笑うのか」と 詰問されています。しかも、アブラハムも「心の中で笑った」のですが、サラにたいして、なぜこのようなこだわりのような質問をされた のかというところ。
 アブラハムの笑いは、ややユーモアに対応するような、「もし、冗談だとしても、うれしいことなのだがな」というところがあり、それ にたいして、サラの笑いは、主のみ業にたいして、最初から冷笑を浴びせるようなブラックな罪が隠れていたのではないかという見方。
 しかし、主は笑ったサラにたいしてではなく、アブラハムにむけて「どうしてあなたの妻サラは・・・笑うのか」と問われているのだと したら、サラの隠れた冷笑の罪は、実は、アブラハムにあったのであり、サラからしたら、「自分のせいではなく、先にわらったのは夫ア ブラハムだ」という逃れ場所を思いついたとしても不思議ではないでしょう。
 主からみると、アブラハムの笑いとサラの笑いには、本質的な違いがなかった。その点は、サラにではなく、アブラハムにたいして、問 われたところにうかがわれるのだと考えます。
 三つ目は、18章で語られている事柄として、神が滅ぼすべくソドムの街を「見に行く」というところ。(これは直接説教そのものには 反映していません。)全能の神は、どうしてすぐに滅ぼすことをされなかったのかというところ。アブラハムと神との会話から推察できる ことは、神はすぐにでも滅ぼすことはできたのだとしても、最後の最後まで「忍耐」され、わずかな救いの可能性がみえるところに全体を 救う糸口を探される方なのだというところ。予定論が決定論であるという議論は、歴史の上で果てしなく展開されてきましたが、聖定の本 質は神の決定の仕方であり、すべては神のみに属するとみなされるのだと、たとえばわたしは二重予定についてウエストミンスター信仰告 白を受け入れているのだとしても、「神が極みまで忍耐され」「罪を悲しまれている」というところに行き着くと、どれくらいソドムを憎 まれたかではなく、ニネベのように、「人の想像を超えるほどに滅ぼすのを惜しまれた」というとこが落としどころとなると考えます。
 聖定は神秘ですが、その“神秘性”を世俗の抽象的哲学的概念だけで論じることはできないのであり、神が人のためにどれだけ心を痛め られ、そして、悔い改めて神に立ち返るとき、どれだけ大きな喜びを覚えておられるかところに行き着いたうえで、神の偉大さをほめたた えるものでありたいと願います。
 いえ、それに基づいて、サラの笑いへの“こだわり”の意味を探し求めるとき、たとえ、人に気付かれない隠れた小さな罪であったとし ても、想像を超えた、悲しみと怒りが引き起こされているだというところ、しかし、それはサラをいじめておられたのではなく、これから 地上に生きるようになる人々にとって、アブラハムとサラを“信仰の模範”としてひきたてたいという願いと、やがて天国における笑いや 喜びが約束されているとしても、天国においてばかりでなく、いわば現生の生涯のなかで、主の確かな業を見て、感謝をささげるように なってもらいたいという切なる願いによるのだと考えます。