Tokyo 10月14日(月)
         
     
  
トレーシー・クリッカさんからの宿題

  ワシントンDCのクリス・クリッカ宅で、ご一家とお交わりのときをもったとき、クリッカさんとは、ネットワークの課題、とりわ け、キリスト者ではない人たちとのネットワークづくりについて話題となったのですが、わたしは、7人のお子さんたちをホームスクーリ ングで育てておられた様子をそのまま伺うことになり、居間に掲げてあった週間カレンダーについて、奥さまのトレーシーさんに質問。
 わたし「午前中、午後と、それぞれ一つづつの課題というのは、どういう意味ですか」
 トレーシ・クリッカ「生活の上で目標は大切でしょうね。目標を立ててそれを実行するために、少ない時間かたくさんの時間をかけるか は、それぞれでしょう。だから、もし少ない時間で目標が達成できたら、あとは自由。継続している課題を扱ってもいいし、そうしなくて もいい、もし時間がかかるようだったら、時間にとらわれずに実行して、午後の時間もつかうなど、自分で判断できるように願っていま す。」
 わたし「わたしの場合は、アンスクーリングで育てましたが、クリッカ家は、アンスクーリングとも違うのですか」
 トレーシ・クリッカ「アンスクーリングはむしろ親の側にとても高度な判断や、それなりの時間をつかうことが求められるでしょう。わ たしの家は子どもが多いので、そうもいきませんでした。ある程度のカリキュラムや学習課題を与えました。」
 わたし「掃除とか、買い物の時間とかもありますね。」
 トレーシ・クリッカ「そうですね。(笑) 家の手伝いは、それこそ、すばらしい学習の機会となると思いますよ。」
 トレーシーさんからも、ご質問をいただきました。
 トレーシー「ところで、日本の漫画熱は、アメリカでも有名です。子どもたちに漫画を与えることで、“想像力”が養われにくくなるこ とはありませんか。」
 わたし「日本人がホームスクーリングをするときの課題かもしれませんが、本を読むときのおもしろさが損なわれるとか、文字を読むに 比べて想像力が漫画で落ちるとか、あまり考えたことなかったですね。」

 わたしは、少し言葉を濁したのです。
 おそらく、クリッカ家では、ホームスクーリングをおこなう子どもたちの生活のなかで“漫画”にふれることはほぼかったと推察しまし た。
 実際に、わが家のホームスクーリングの現場、図書館を主に使ってたので、子どもたちがふれた本はあくまでほとんどが「文字中心」で した。写真などがあったとしても、写真の説明のために文字がつかわれていたので、“書けるようになる=文字で表現できるようになる” までの時間はかかったと思いますが、読んで意味を理解できているかいないかというところで、かなり早い段階で・・たとえば7歳くらい を過ぎるころから、読解力はあったと考えます。
 ただ、親の側で、この本は読んではならないとかの“禁止”を設定しませんでした。親は優れた本を子どもたちに示すのみ。「この本は おもしろい」「この本は、すごく良かった」とか。しかし、どれを読むか読まないかは、最後は子どもたちの判断に任せました。
 おそらく、このあたりで、親が「読ませるべき本と読まるべきでない本」を区別して、いわゆる“禁書”をつくるかどうかの判断が、ひ とつの課題となるでしょう。
 子どもたちは、自分の“おこづかい”で漫画を買うことはありましたが、親が干渉することはしませんでした。
 わたしが漫画本を読んだり買い与えたりはしなかったのですが、たとえば、ブラック・ジャックは子どもたちが全巻を入手。
 わたしが子どもたちから借りて読んでいたくらいです。
 わたしは、子どもたちから借りた、手塚さんの作品にふれて、「漫画」が「小説」とか「文学作品」より劣っているとかいう考え方をも たなくなりました。漫画恐るべし。それだけ良きにつけ悪しきにつけ、子どもに与える影響力を考慮しないまま、日本の“教育”を考える ことはできないと考えるようになりました。
 子どもたちへの影響という意味では、学校の教科書が与えるものの比ではないからです。

 聖書が示しているのは見える現実と見えない現実についてであり、人が書いたものは、空想をふくめて想像力の産物に過ぎないという考 え方は、幼いころから徹底して伝えました。
 聖書と、聖書以外の書物の違いを徹底的に教えました。それ以外は、漫画であれ、小説であれ、区別はしませんでした。
 子どもたちに聖書を伝える場合、“読み聞かせ”が基本であり、“絵”とか「紙芝居」なども、子どもたちに正確な聖書の“事実性”を 伝えられていないと考えました。美しい挿絵が中心となっている聖書物語もありましたが、紙芝居さえ、聖書のメッセージが絵画だけで表 現しきれるとは思われず、聖霊が魂に働く領域を狭めてしまうのではないかと危惧しました。
 ハリウッド映画も見せましたが、わたしはうるさいくらい“批判的コメント”を語りました。映画をつくった人の意図は、純粋に伝道も あったでしょう。けれども、映画づくりにつきものである“デフォルメ(可塑化)”や省略という現象は、聖書のメッセージをゆがめてし まうと考えました。映画ではこう描かれていたけれど、聖書には実際にはこう書かれているよ・・・とか。
 「十戒」でも、モーセの「燃える柴の箇所」が描かれていたのですが、聖書はモーセが神の命令を受けていかに恐れたかを表しているのに、そのような人としての部 分は全部カット。モーセは救国のヒーローであり、ハリウッド流の「ヒロイズム」が優生になってしまったとみえました。
 もちろん、わたしは、それをしつこいくらい子どもたちに伝えました。
 「親が批判的コメントをできないようなら見せないほうがいい」というのにも賛成できません。
ホームスクーリングは、親が子どもたちを親の意のままにコントロールすることではなく、子どもたちのなかの学習力や潜在的な力引き出 され、自分で考えたり判断したりできるように「見守る」とか「寄り添う」のが、親の仕事だと考えたからです。(わたしが、チアのP・ ブローマンさんの考え方と決定的に違っていた一つでもあります。)
 幼い子どもにたいして、「親が有害と判断するので、子どもに見せてはいけない」のはもっともだとしても、子どもが成長する段階で、 ものごとについての「判断力」が養われることがもっと大切だと考えました。