Tokyo 10月06日(日)
         
     
  
「学者」のなかにみられる“ゆれ”
について

 それは、かねてからわたしのなかにあったある種のこだわりというか、哲学の大村晴雄先生と、神学者の宇田進先生から受け継いだ「宿 題」のようなものです。
 ある人の思想について述べる場合、その人の書いた“代表作”を読むことで、思想が大枠のところ理解できるとする場合。それにたいし て、代表作を読むだけでは、書いた人の思想を正確に把握しているとはいえず、書かれたもの全部、可能であれば「全集」を読まなけれ ば、少なくとも“〜はこのように言っている”とはいえないのではないかというのが大村先生のお考えでした。
 これにたいして、宇田先生は、代表作に基づいて思想の傾向を述べるのは可能だというお考えでした。
 この違いが、「哲学と神学の違い」に基づくという仮説があり、わたしにはまだ検証できていません。
 東大で哲学を教えておられた大村晴雄先生は、「代表作」を引用しただけで、その人の思想を論じることは“言語道断”とまではいかな いまでも、正確に思想を理解できているとはいえないとされておられました。
 「聞きかじった本の断片だけでなんでもわかったかのように思っていた」若い頃のわたしもその点はものすごく納得させられていたの で、思想家であれ、小説家であれ、誰かの考え方を“わかる”といえるためには、ほぼ全部の書を読まなければならないと考えるよ うになりました。大村先生の場合、それが大学の講壇という責任をもった立場におられたからなおさらなのでしょう。
 だれかの思想について述べる場合、全部を読む・・・などという時間も能力もないわたしのような“凡人”にはとても到達できない領域 ですが、大村先生が〜のように言っておられるというだけで、もたらされる影響力の大きさをご存じであられたのであり、キリスト者で あったので“神格化”されるのを最もお嫌いになったと同時に、「全部読まなければ、だれかの思想を云々すべきではない」というのは、 おそらく大村先生にはじまった伝統なのではなく、その是非がどうかというより、それこそが東大流の「思想のつくりかた」なのではない かと推察します。大村先生は、ヘーゲル哲学のご専門。ヘーゲル著作全集をドイツ語で読破しておられました。

 あたしがあるとき「ヘルマン・ヘッセ」について、批判的なことを述べたとき、大村先生からすかさずご意見を賜り「あなたはヘッセを どれくらい読んだのか」というお叱りを得ました。いえ、そのときも今も、全部読んではいなかったので、つまり、自分の言いたいことを 裏付けるために有名なヘッセの作品を引用しただけだと見透かしておられたのであり、大村先生の立場でみると、世間の論壇をうかがうと、そ のような上滑りの“聞きかじったこと”をもってその人と思想について何でもしているつもりになっている似非学者が反乱しているとみら れるとも語られていました。
 1時間あまりの講義のなかで、引用される思想家について、著作のほとんどを読んでおられるのだとしたら、わずか100分に満たない 講義のために少なくとも使った時間はどれほどのものか想像さえできません。膨大な読書の裏付けがあるという意味で、神が人に与えた能 力の“極み”をみるように思われました。

 わたしが影響を受けた宇田先生の場合、「全巻主義」ではなく、思想家の代表作を読むことによって思想史のなかに思想家が位置づけら れるのであるとお考えになっておられたようで、弁証神学のバンティルも「全巻読まなければ思想について論じることはできない」という 立場ではなかったとみられます。わたしが宇田先生にでなく、もし大村先生に先にであっていたら、深刻な聖俗二元論から抜け出せていた だろうか・・・とか、ホームスクーリングの基礎となる聖書的立場を得ていただろうか・・・など考えると、人の考えに及ばない摂理が あったと受け入れざるをえません。
 「全部読まなければ論じるな」という意味でしょうかという質問を傾けたところ、全部読まなくてもある程度、その人の思想の傾向はわ かるというのは間違いではない。けれどもしそうだとしても、そのような場合、たとえば誰かのことを引用した場合も、「わたしが読んだ 本によれば」とか「全部を把握しているかどうかは不明だが」とか、そういう控えめな言い方をすべきであり、まるで「全部わかってい る」かのような言い方が問題を生み出すとのこと。
 しかし、全部読んだかどうかで、言論の信憑性を判断するのだとしたら、ほとんどディスカッションなどは不可能になるか、議論そのも のが縮小されることでしょう。
 それでも、昨今の討論やディスカッションが宙に浮いているとみえるほど、ただ「聞きかじったこと」だけなのに、それをあたかも信憑 性の高い話題のように扱う傾向が蔓延していて、アベさんが首相になってからは、この傾向にくわえて、まことしやかな嘘ははびこるよう になったと思われます。
 「れいわ」の山本さんは、この点で、徹底した「現場主義」「当事者主義」を貫いておられ、どこかの党のキャッチコピーだった「小さ な声を聴く力」を体現しておられると推察されます。言葉が空疎なものか、実態に裏付けられているのか。そして、ただアンチアカデミズ ムなのではなく、学者の目線や学問的な議論もふまえておられるとみえるあたり、「さすが」です。

 聞きかじったことで全部わかったつもりになっている思想家や批評家のご意見でも、参考程度にはなるでしょう。けれども、わたしは、 そのような言論が生み出される背景や、何をねらって語られているかに関心があり、つまり、世論誘導や、権力の「御用」につかわれてい るのかどうか判断しなければならないと考えます。
 学者のように言っていながら、かえって無知を晒すようになる。・・・そんな聴いている側が恥ずかしくなるような言論が蔓延していま す。
 ほんとうに政権の腐敗や社会問題に取り組もうとするとき、「自分には全部わかっていないから批判する立場にはない」とかを隠れ蓑にし て、論争の場から身を引くなどというのは、わたしには“官僚的虚弱体質”があらわれているとみえます。
 「あなたの正しさが、律法学者の正しさに優っていなければ、あなたは決して天国に入ることはできません」という主のみ言葉にベース をおいて、不正義や腐敗と闘う備えが養われていなければなりません。大村先生は学者としてのプロ意識に徹底しておられ、たぶん、官僚 的なメンタルから完全に自由でなかったとしても、「ヤスクニ問題」について明確な発言をされていました。
 学者としての一面だけを見ていただけでは、讃美歌をうたわれるときなど、どれだけ嬉しそうなご様子であったか・・・、いえ、良い声 をもっておられたかなども見えないでしょう。
 本の上ばかりでなく、書かれたものだけで人を簡単には判断できないといえるかもしれません。全巻読み、しかも全部読んだからといっ て、その人の思想の内面までわかるはずもないというところにたたなければ、ほんとうの“学者”とはいえないのではないでしょうか。
 心や思想の内面までほんとうに世見通し判別できるのは神しかできないからです。
 わたしが大村先生を今も尊敬しているのは、「人がどれだけ知性を研ぎ澄まして理解しようと思っても、全部の理解には及ばない」こと を、よくわかっておられたところをふまえて、聖書は「霊感された神のことば」であり、「神の言葉は生きていて、力を及ぼし、どんなもろ刃の剣よりも鋭く、魂と霊、また関節とその骨髄を分けるまでに刺し通し、心の考えと意向とを見分けることができる」(ヘブライ4:12)と信じて、聖書を語っておられたところです。