Tokyo 9月22日(日)
         
     
  
ジョシュア・ハリスの棄教について


 セミナーの準備が順調であるといえないままの前日。「恋愛講座」で知られるジョシュア・ハリスが離婚し、そしてキリスト教そのもの からも離れたという知らせがあり、いったい出来事の真相はどこか、どこに落としどころを見出したらいいのか戸惑っているところです。
 ジョシュアの父は、グレッグ・ハリス。その著書「the christian homeschooling」によって、日本でホームスクーリングを実践するための糸口を得たのであり、米国コロラドでおこなわれたセミナーでも、著書に よって励まされたことへの感謝を伝えました。
 長老系の単立教会の牧師であり、教会はのちに礼拝出席者数が数千人規模となりました。ジョシュアは7人の子どもたちの長男であり、 教会の後継者として父の偉業を引きつぎ、「 I Kissed Dating Goodbye(邦題 聖書が教える恋愛講座)」や「誘惑に負けないために」など、結婚前の婚前交渉にたいして、厳格な立場を述べた著書が有名。
 昨今語られているいわゆる自由な恋愛が、フェミニズムを祖とする自由恋愛と、セックスを結婚と切り離し、男女交際のなかで、セック スに至るのを容認し、それこそ小泉ジュニアの“できちゃった婚”が広く“公認”されてきたかのような風潮は、おそらく米国経由で、日 本のメディアにも礼賛とまではいかないまでも、事実上の「現代風の恋愛観」とみられるほどであり、ジョシュア・ハリスは聖書の原則に 着目させ、男女が結婚前の純潔をまもることが、祝福の基であると述べたあたり、同じ考えであるといえるキリスト者は、わたしも含め て、決して少なくないと考えます。
 ジョシュアによるインスタグラムへの書き込みが邦訳されていて、原文と照らし合わせたわけではないのですが、マイク・ファリスの手 紙とあわせ読むと、ジョシュアの棄教の意志は、疑いようがないのだと考えます。(以下、「クリスチャン・トゥデイ」より)
 
 
  離婚と棄教を公にしたことで、米国のホームスクーラーのなかにかなりの動揺があったと推察されます。
  恋愛観や結婚観が一変したばかりでなく、同性愛や同性結婚に賛成する立ち位置におられるのが印象に残ります。自分の状態を「堕 落」と断定しているあたりは、もしかしたら、まだ、再生できる余地があるのかもしれません。それでも、すでに「悔い改め」の言葉は、 聖書が示している神との関係性からではなく、自分と向き合った上での“罪悪感”を示すにとどまっています。
 ジョシュアは、聖書のなかに生き方の基本原則を見出し、それに従うと決めて、そして他者にたいしても、同じように教えたのです。マ イク・ファリスが手紙のなかで言うように、自分が見出した基本原則に従い、そして他人を従わせるといったところがたとえば、丁寧に仕 立てた服であるはずだったのにそれがいつの間にか「窮屈」になり、あっさりと脱ぎ捨てしまったようもみえます。
 自分が見出し、そして打ち立てた原則が、いつのまにか自分を縛り付ける縄のようになり、窮屈になったので脱ぎ捨てたというのだった としたら、聖書の読み方そのものが的外れだったといわざるをえません。

 つまり、聖書は、魂の糧であり、そこに「聖霊の語る声」をきかなければならないところ、ジョシュアは本人も気が付かないまま「いか に生きるべきか」というハウツーものの書物と同列においていたということになるでしょう。
 そのように聖書を扱うことに慣れてしまうと、聖書は処世術のための優れた手本か、もしくは、神の恵みを引き出すための「すぐれた処 世術の書」としか読めなくなるのではないでしょうか。神は人が祝福され、幸福を得るのを望んでおられますが、聖書が与えられたのは、 よりよく生きるための術を教えるためではないのです。
 ジョシュアハリスは、純潔の大切さを教えて名をあげ財を得ましたが、魂のために“生きた水”として与えられている聖書の意味がわか らないまま、講壇に立っていたのでしょう。いえ、もっといえば、キリストとの個人的な関係が構築されないまま、「棄教宣言」に至った のだと思われます。
 愛について、先週某教会にて説教を担当させていただいたとき、聖書に書かれた「愛」についてあれこれ開いていたところ、第二テモテ 4;10に「デマスは今の世を愛し、私を捨てて、テサロニケに(行った)」と書かれている箇所にあたりました。
 「デマスが今の世を愛した」というところが気になりました。ジョシュアがこれと同一だといいたいのではありません。しかし、ジョ シュアは世の価値観に魅力を感じてしまうほど、聖書がわかっていなかったという意味ではないでしょうか。
 そうだとしたら、ほんとうに、魂がキリストに捕えられていないまま、“成り行き”だけで講壇にたち、メッセージとして福音そのもの ではなく、ひたすら“処世術”を語っていられる“教職”が、いたるところにおられるかもしれないと案ずるのでした。
 ジョシュアにとっては、「棄教宣言」さえひとつの通過点であり、やがて、キリストとの本当の出会いを得るなら幸いでしょう。
 個人的にはなんの面識がないとしても、日本でホームスクーリングおこなっている方なら、世界のホームスクーリング運動に多くの影響 を与えてきた米国の教友のため、心を痛めながら祈るべきなのではないかと思われました。