Tokyo 9月15日(日)
         
 
   
  
 
2019年9月15日 グレースコミニティ 礼拝説教
聖書 第一コリント人への手紙13章
説教 「信仰・希望・愛」

◆なぜ愛が冷えていったのか◆

 パウロがコリントあてに書いた手紙であることをふまえると、この箇所はただ愛のすばらしさを伝えていると読まれるより、パウロから みると、コリント教会全体にとって、とくに愛について健全な状態でなかったことが背景にあったとみることができます。
 そして、ただコリント教会の愛の欠如を指摘するのがねらいなのではなく、信仰と希望と愛を保ち続けることができるようにというメッ セージでもあるのでした。

 主イエス様は、マタイの福音書24章12節で、世の終わりにはどのような前兆があるのですかという弟子たちの質問にお応えされるな かで、「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」と語られました。 愛がなくなるのではなく、愛が冷える時代がく るというのです。
 コリント教会の内部にも、愛が冷えてしまうような雰囲気でつつまれていたといえるでしょう。愛がないのではなく、愛が冷えていたの です。

 もし愛が私たちのなかになくなったとしたら、今の世でもあの世でも、それは地獄です。
地獄では愛そのものがなくなるので、神から愛されることも、互いに愛し合うことも、そして自分を愛することもできなくされるのでし た。今のわたしたちには想像することもできません。
 それゆえに、コリントの信徒のなかには、愛が全くなかったわけではありません。何についても、愛に基づいた言葉や行動ができなく なっていたのです。いえ、人のなかから愛がなくなるとは、生きていけないほどの重みをもつでしょう。
 愛そのものもがなくなっていたわけではない。しかし、使徒パウロからみると、愛があるといえないほど愛が冷えていたというのが、コ リント教会だったのではないでしょうか。

 パウロ派の人たちとははなしをするが、ペテロ派のひとたちとは口もききたくないとか、自分が属しているコミニティーグループのなか では、仲間同士として愛を語れるけれど、仲間以外には愛が冷たくなる冷たくなるという教会生活がコリント信徒にみられたのかもしれま せん。

 愛が冷えるもうひとつの要素は、悪いものとの闘いです。正しい場所を守るのは当然であるとしても、正しい立場に立とうとしていれば いるほど、間違った考え方を許すことができなくなるでしょう。批判したり攻撃することだけに支配されてしまうと、愛が冷えます。
 黙示録2章に書かれていることで、エペソ教会は、ニコライ派と呼ばれる異端との戦いのなか、主は「はじめの愛から離れてしまった」 と窘めておられます。
 たとえ、正しい動機ではじまったとしても、愛が冷えてしまい、かえって批判する心だけが研ぎ澄まされていったのでした。
 コリント13章そのものに入るまえに、コリントの信徒のなかに、なぜ愛が冷えるようになってしまったのかにフォーカスしてみましょ う。
そのもともとの理由はどこにあったのかというと、やはり主が語られた「不法がはびこる」ことにヒントがあるのではないでしょうか。

 聖書が「法」というとき、それはモーセ十戒をあらわします。そして「不法」というとき、モーセの十戒が軽く扱われるか、もしくは、 全く無視された状態であることをあらわします。
 モーセの十戒はユダヤの伝統でもあり、キリスト教会が継承してきた伝統でもあります。
 主の戒めを軽んじるところと、愛が冷えてしまうとは、いったいどうリンクしているのでしょう。
 わたしたちが、偶像礼拝が罪であると理解できなくなると、ほんとうの神への愛が冷えます。偶像を礼拝するとき、神へ愛が失われ、神 からの愛さえ取り上げられるでしょう。
 わたしたちが、姦淫の罪について理解できなくなると、結婚を尊ばなくなり、夫婦の愛は冷えるのです。夫として妻を愛することも、妻 として夫を愛することにも「冷える」ことになります。
 コリントに蔓延していた不品行はまさに、そこから生まれていました。
安息日を尊ばなくなると、どうなるか。
 神以外のものが自分を支配するようになります。たとえば仕事。神ではなく、仕事の奴隷になります。もしかしたら、趣味の奴隷になり ます。つまり、かたちをかえた偶像礼拝に支配されるようになるのです。
 やがて自分を愛することさえ冷えていくのです。
 目的を達成するために、手段を選ばなくなり、「殺人」も「盗み」も「嘘」も罪であるとわからなくなるとき、隣人愛が冷えるでしょ う。
 このように、主の十戒を尊ばなくなることによって、神、隣人、そして自分にたいしての愛が冷えてしまうのであり、コリントの信徒 は、そのただ中にあったのでした。


 ◆キリストにある愛が豊かにされるために◆

 クリスチャンは、「信仰」「希望」「愛」を語ることができるが、未信者は「信仰」「希望」「愛」を語れないということはありませ ん。いえ、言葉だけに限ったとしたら、世のなかに満ち溢れています。
 ただし、偶像礼拝の恐ろしさとは、たとえ、「信仰」「希望」「愛」という言葉があったとしても、すべてが本物ではないところです。 つまり、偶像がどれほど「信仰」「希望」「愛」という言葉を語るとしても、それは、結局実態のない、「嘘」や空しさと結びついてしま うという恐ろしい結果を招くのでした。
 戦争中、日本の青年たちが、嬉々として戦地に赴いたのは、「たとえ死んでも、靖国の神となり、天皇が参拝してくれる」と信じていた からです。
 戦地で死んでも、魂が神社に帰るわけではなく、天皇によって祈ってもらっても、慰められるわけでも、そこに希望があるわけでもない のです。すべて嘘。空虚な信仰、空虚な希望。そして天皇の愛も空虚だったのです。

 クリスチャンでない人たちに、「信仰」「希望」「愛」が満ちていたとしても、どこからくるのかわからないので、感謝をささげること も、たとえば愛を増しくわえてくださいと祈ることもできないのです。偽物なので、すべて裏切られるのです。
ただし、愛は、もともと「豊かだったり貧しかったりする」ので、クリスチャンに愛が冷えて、クリスチャンでない人たちに愛が満ちてい るということはありえると認めなければなりません。

 けれども、クリスチャンとそうでない人の決定的な違いは、「信仰」「希望」「愛」について、それがほんとうはどこからくるか知って いるか知らないかにあるのです。
 この世界には、キリストと無関係なものは何ひとつありません。
 見えるものも、見えないもものも良いものは全部キリストから来ます。
 知識も財産も、豊かさも良いものは全部キリストから来るのであり、ただし、それがどこから来るのかわかっているのかわかっていない のかの違いは、それこそ天と地の違いがあります。
クリスチャンは、愛がどこから来るのか、キリストが模範であり、愛の源はキリストであるとわかっている。すべて良いものはキリストか らくると知っているので、「信仰」「希望」「愛」が増し加わるように願うとか祈ることができるのです。

 クリスチャンでなければ、愛とは、人をほめたたえるための偶像礼拝の材料くらいしかならないかもしれません。どれだけ愛が豊かであ り、やさしい心をもっていても、優れた隣人愛があっても、人をほめたたえるための材料にしかならないのです。
クリスチャンであるなら、愛を再生するためには、愛の模範であるキリストをめざすところにあります。愛の模範が与えられているので、 クリスチャンでない人たちにも模範を示すことができるかもしれません。
 パウロは、愛がどのような結果をもたらすのかを述べています。
 しかも、その愛は、特別な人が与えられているもではなく、すべてのクリスチャンに与えられている愛です。
 当時注目されていた異言の威厳の賜物。愛がなければ、ひたすらやかましい騒音にしかすぎなくなります。
 賜物について述べている箇所であり、コリント教会を支配していた考え方の一つに、能力主義があったのでしょう。賜物をたくさんもっ ている人がすばらしいという人目につくパフォーマンスを「人を推し量る尺度」にしていました。
 どんなに優れた能力をもっていても、愛が豊かになるために用いられるのでなければ、役に立たないのです。いいかえれば、あなたの能 力は、自己顕示や自分の能力を示すための道具ではなく、愛を豊かにするために用いることが可能なのです。
 3節にある、良いおこないですが、どれほどすばらしい慈善行為だったとでも、もしそれが愛から出ていないのだとしたら、ただ自分を 満足させるだけに過ぎなくなります。
 自分をほめるくらいの役にはたつのかもしれません。
「自分はなんとすばらしいのだろう」とか悦にいったとしても、主を喜ばせたり、人の利益になるとは限りません。
 愛がもたらす結果は、寛容と親切です。自分が親切だとおもっておこなう親切、自分が寛容だと思って示す寛容さは、相手にとって、親 切でも寛容でもなく、自分の存在を示す威圧感にしかすぎなくなります。
 愛が豊かになるとは、聖霊の働きに伴う実です。

 自分は親切な人だとか、自分ほど他人に寛容な人はいないとか、そのような自己満足を生み出すような親切や寛容さ、主から来るもので はありません。
聖霊の実でもありません。
 聖霊が生み出す実のなかに、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありませ ん。」とあります。
 パウロが愛の性質について語っている愛の生み出す実とは、すなわち、聖霊が生み出す実なのだといえます。
 愛が、聖霊の実であるとするなら、愛が増しくわえられるように、聖霊が満たされるように、願うところからはじめられるのではないで しょうか。

 愛が冷えると、人の悪いところが目につき、反対に、良いところが目に入らなくなるでしょう。
なんでも自分中心になるため、「自分を愛する」ことにすら乏しくなり、何かというと、すぐに怒りに身を任せるようになるかもしれませ ん。

 聖書の言う「愛」は、主が「人がその友のために命を捨てる以上の愛はありません。」という愛に集約されます。
「あなたは、隣人のために、今、そしてこれからも、自分の何を犠牲にしてきましたか」、隣人のために、これから何を犠牲にしようとし ますか。
 自分によくしてくれる人を愛するなら、信仰があってもなくても可能でしょう。
隣人というとき、あなたにとって好ましい相手にたいしてだけではありません。愛を働かせるというとき、自分によくしてくれるものにた いしてだけだとしたら、信仰のないひともとっくにそうしているでしょう。

 聖書の愛の基準という意味で、人を好きになるというのとは違い、誰に対してでも、隣人の利益になる何かをすることです。
 主イエス様は、わたしたちを友と呼び、わたしたちを滅び~救い出すために命を投げ出してくださいました。

 神のわたしたちへ愛は完全ですが、わたしたちが神を愛する愛については、不完全のままにとどめられています。
 しかし、やがて、神がどれほどわたしたちを愛しておられるか、すべてをわからせてくさる日がくるでしょう。
 今はクリスチャンでない人も、クリスチャンも「信仰」「希望」「愛」をことばの上で語るのですが、天国では必ず「信仰」「希望」 「愛」はキリスト者だけのものになります。それゆえに、「信仰」「希望」「愛」はいつまでも続くのであり、やがて天国では、最も優れ た賜物である愛の根源である神が支配されるようになるのでした。

 つまり、「信仰」「希望」「愛」についてのライセンスはすでに与えられているのであり、あとは、主にふさわしく成長させていただけ るのです。それがクリスチャンの特権です。
 そうであれば、隣人愛についても、さまざまな賜物が増しくわえられて、ますます熱くされ、ますます強くなる賜物として与えられるの です。
 いまどれほど、能力主義、成果主義。功利主義が支配していたとしても、それを乗り越えさせていただけるのです。

(祈)