Tokyo 8月29日(木)
         
 
  ホームスクーリングに必要な「通過点」
  

  9月セミナーの話題に通じるのかもしれませんが、ホームスクーリングに際して、必 要なモノというより、大切な考え方があります。クリスチャンホームスクーリングの場合と、クリスチャンかそうでないか問わないで必要 な部分とはやはり違うというべきなのでしょう。
 ただし、共通の一般的な必要という意味でいえば、ホームスクーリングは“学校の子どもではなくなる”というところから生まれる課題 があります。
 子どもに学校を与えないということは、子どもを教育しないという意味ではありません。いえ、むしろ反対で、学校によって失われるか もしれない教育の本質を守るのです。
 学校が子どもに何かを与えるという考え方は幻想であるか、もしかしたらかたちをかえた洗脳にすぎません。学校は、子どもに何を与え るのかではなく、何を奪うのかを考えておいたほうがいいでしょう。それは、ホームスクーリングと学校が本質的に違うというところを指 しているのです。
 学校は子どもから自分で考える力を奪います。自分の頭で考えるのは原則禁止。まず、教師の言うことに従わせるのです。教師の言うこ とが絶対であり、教師の言うことに従わなければ、「罰則」とまでいかなくても、“多動”や「アルペルガー」というレッテル貼りが用意 してあります。あくまで教師の言うことに逆らうのは、確かに何かの問題があるのかもしれませが、ここでいうのは、自分の内面から生ま れた疑問を解決するために、自分の頭で考えて、自分で調べたり、まして勝手に発言することは教室で許されていないです。
 そして「教科書」がもたらす、知性の劣化が子どもの無能化に輪をかけます。子どもたちは、考えることが許されないばかりではなく、 教科書に書かれたことを、丸のみして、暗記し、百パーセントをめざして再生する能力を身に着けなければなりません。文字もそのために 学ぶのです。英語教育は、本質から“根絶やし”にされているといっていいでしょう。英語力は養育されるどころか、二度と英語が使えな くなるレベルまで貶められます。
 おそらく、学校での「英語力」で、英語を使えるようになっては困る人がいるのでしょう。英語学習を研究する人々から、学校教育の変 革が訴えられていないはずはないと考えます。もともと、学校の役割が、「日本人平均値が英語を自由に使えるようになると、世界のなか でろくなことがない」という考え方が据えられているしかわたしには思われません。
 そして数学。数学が抽象概念を扱うことに学問そのものの醍醐味があるといえるのですが、子どもたちから数の興味深さを根こそぎ奪い 去るような学習の仕組みとして教科書ができあがっています。すでに「正解」が全部用意され、正解以外の回答は間違いとされます。たと えば、1+1は必ず2とされなければなりません。子どもたちの目線からいえば、たとえばお餅が二つあり、それをたしたら、1、つま り、1+1は1があたりまえなのです。1+1+1も同じ、これを1と回答したら×です。けれども、子どもたちからするとこれも1で す。ペットボトルの水を、バケツにあけてみましょう。はじめは3つだったのが一つになるのです。
 液体をあわせると3のままとどまり続けることは絶対にない。では「+」という記号はいったい何なのか。
 二つをあわせることではないのか。リンゴが3つなら別?そうではない。子ども目線からすると、リンゴだって一つ一つ違う。そうであ れば、そのまま「1」として扱っていいはずはない。
 数学は抽象化する学問であり、「リンゴが全部同じだと考えることにする」というところからはじまるのです。
 子どもからすると、「〜と考えることにする」という抽象化はものすごく難しいことなのです。
 数学は、もともと抽象概念なのですが、子どもたちには、これが抽象概念だというところから、ものすごく丁寧に説明しなければならな いはずなのに、全部「正解」か間違い。つまり、数学とは、「これが正しいと上からいわれたことに従う」訓練だともいえます。

 ホームスクーリングでは、いずれも、ゼロベースです。英語も数学も教えません。
 子どもは親が教えないでもなんでも学ぶのです。
 「子どもは遊ばせろ、子どもは遊んで育つ」という古来のことわざはほんとうです。
 ただし、親が子どもをほったらかしにするのとホームスクーリングとは雲泥の差があります。
 「ほったらかし」と「ホームスクーリング」がどう違うのかわからない・・・そのあたりがホームスクーリングへのハードルを高くして いるのでしょうね。
 生活のなかで、日本でも英語の“単語”を探すことは可能です。ただ、すべてがオリジナルの英語由来であっても、英語そのものではな く、英語と日本語の“音”のつくりが全く異なるところが教えられなければなりませんが、たとば、子どもたちのほうが、映画やアニメな どの“音”に敏感なのです。アニメとか映画が“教育”に値しないというだけでは、“学校教育の洗脳”から抜け出ていないのです。です から、アルファベットをかけるのかどうかを英語の入り口にしてはならないのです。音の違いにフォーカスするなら、あえて「英語教材」 などを与えないで、ネイティブの“音”になじませる環境を与えたほうがいいのです。
 数の概念など、日常にあふれています。
 数の数え方でさえ、10進法でしょう。まず、10進法を丁寧に教えららるべきでしょう。そのほかの2進法など、バリエーションはい くらでもありますが、数の塊という考え方を「数の概念」のところで教えられるべきです。
 ほんとうは、ゼロと一というのはものすごく大切で、子どもたちがわからないのは「ゼロ」です。何もないという状態がゼロ。しかし、 子どもには、何もないという“概念”そのものが受け入れられません。それと、1.多が一になるというところは、ほとんど哲学のようで す。つまり、1には、「ひとつに束ねる」とか、「全体としてみると」かいう考え方が養われていなければならないのでした。九九を暗記 するなどより、ゼロと1の概念を徹底して、できれば一年くらいかけて学習できれば、ほとんどの数学の基礎ができあがっているとみてい いでしょう。なぜ九九を暗記するかわからないまま、暗記させられるのは、子どもにとっては中に何が入っているのかかわからないまま食 べさせられる「おにぎり」を無理やり食べさせられるようなものです。ホームスクーリングでは、九九の勉強は優先順位からするとずっと 後ということになります。
 数え方や測り方は、日常生活に必要なレベルで足ります。重さや長さは体重計での比較。、時間は、時計や、カレンダーなどで間に合う でしょう。基礎は親が子どもに伝えられる範囲で十分です。中学校や高校で学ぶ数学という意味で、高等数学などは必要性からいえば、ほ ぼありません。全員が機械工学・土木工学や宇宙工学のなどの道を行くなら別ですが。
 学校に行かなければ、集団活動が訓練されないなどというのも幻想です。
 自分の頭で考えられるような子どもであれば、状況判断して、集団になじむことなど、あまり困難を感じないでしょう。問題の多くは、 子どもたちに「集団適応」を、幼い頃から強制している学校の側にあります。
 学校教育そもののが子どもへの“いじめ”でなりたっているのですから、「学校からいじめを追放せよ」など、泥棒の集団が「われわれ のなかから盗みをなくそう」といっているようなお笑いネタにしかきこえません。
 学校教育そのものが膨大な無駄。
 学校教育は、子どもたちが「おまえたちは愚かでバカな存在だ」と刷り込むところからはじめられます。(安冨歩さん)
 まともな親で、子どもたちの最善を考えているのなら、そんな場所に子どもたちを送っていいのでしょうか!!
 そして、既存の教育そのものさえ、どれだけ「無駄」と「劣化」を生んできたかを理解するところから、ホームスクーリングがはじめら れるべきです。
 そして、クリスチャンの場合は、聖書教育が課題です。これはまた別のテーマです。
 我が家の場合、その上に「日本国憲法」を教えました。ひとつひとつの条文を、聖書を暗記するくらいのレベルで暗記できたら、それが 最善です。この必要性については、昨今、ますますその必要性が増していると考えます。
 日本でホームスクーリングをおこなうなら、日本国憲法で何がいわれているかまず、親が理解することが必須です。
 え、あまり言われてこなかった!? 
 我が家では、聖書と同じ時期に、3人の子どもたちにそれぞれ、子どもたちむけの「日本国憲法」本を与えました。
 親が憲法の大切さがわかっていないのだとしたら、子どもを学校に行かせようが、ホームスクーリングで育てようが、それはそれで大問 題ですよねぇ。