Tokyo 8月15日(木)
         
 
  慰霊と招魂
 

 国家がもつ“カルト性”という意味で、“象徴天皇制”であっても、天皇の役割は深く 特殊な祭儀にかかわり、非常に宗教色の強い部分が温存されています。
 たとえば、もし山本さんが総理になるという日が来たとしても、このような現代日本国の「宗教性」をどのように受け止め、考えるかは 無視できない課題となると考えます。
 かつて“津地鎮祭違憲訴訟”で示された“目的効果基準”は、その目的と効果において宗教の定義にあわなければ、それは“宗教”では なく、習俗だとしました。いくらでも縮尺がごまかせる基準が公認されたことにより、いたるところで、習俗は政教分離原則への違反には あたらないという判断がなされました。
 この曖昧模糊とした判断基準に基づいて、中曽根元首相が“ヤスクニ公式参拝”に踏込み、近隣諸外国から批難された経緯は、すでに過 去のものと言ってはならず、今も、「目的効果基準」のゆえに、なしくずしに政治の場に宗教色が持ち込まれているのが現状です。
 お盆の季節なので、日本人の多くが「慰霊」を受け入れます。
 亡くなった人の魂が、お盆の時期に故郷に帰るのであり、先祖とともに時を過ごし、盆明けには、やすらかに“お帰りいただく”ことに なっているのでした。

 わたしはキリスト者であり、亡くなった人の魂を、生きている人が“慰めることができる”という考え方そのものを受け入れませんが、 先祖に想いをたむけ、なんらかの業績を思い起こし、そして継承するというのは美しい姿であると考えます。
 ただ先祖の業績をほめたたえるばかりではなく、過去の大戦において、近隣アジア諸国にたいしておかした“罪”にも向き合わなければ なりません。
 日本がかつておこなった侵略戦争の“事後効果”はいまだに消えず、過去の戦争を肯定する人々が少なくないところからみて、日本が本 格的にドイツに倣って、精神的な成熟を得るのは、まだ先のことになるのかもしれないと考えます。
 キリスト教教義からすると、死んだ人の魂については、人が操作したり関与したりすることは許されず、ただ神のみが支配する領域であ り、死後の魂が今の世に影響を与えるという考え方をとりません。

 靖国神社が、おおもとのオリジナルの神道ではなく、明治政府にからみると「西欧にみられるキリストの位置にあるべき天皇(現人 神)」を有らしめるという“ねつ造”がおこなわれた結果であり、“招魂”というのも、戦地で亡くなった魂が、靖国神社で“神格化”さ れ、「魂の安泰のため、天皇が祈ってくれる」というところに存在理由があり、つまり、青年たちを嬉々として戦地に赴かせるための“血 の祭壇”であったというのが実態。天皇による“参拝”が違憲であると判断されているのは、現行憲法の根本である主権在民を否定して、 天皇の祭司としての役割を復活させるものに相当するからに他なりません。

 かつて、南米に、アスティカと呼ばれる民族があり、人の血が流されなければ太陽が動きを止めるという「宗教」があり、絶えず闘いと 捕虜の“血”が流されつづけたという史実がありました。いや、それとこれとが全く同じであるとはいいません。
 しかし、日本国家は、事実上の宗主国である米国による圧力のもと、国家神道の祭儀を完全に消滅させなかったのであり、戦前戦中のレ ガシーをリバイバルさせるということは、戦地に赴いて戦死する青年たちの“生血”を飲みこむ巨大な装置を再起動させることを意味して います。
 アベ政権がもくろむのは、青年たちを戦地に赴かせて戦死させ、そこで流される大量の“生血”を、昼夜問わずもとめる悍(おぞ)まし いゾンビの復活だということを忘れてはなりません。