Tokyo 8月8日(木)
         
 
  イスラエルという暴力
 

  パレスチナ地方(カナン)で、イスラエル民族が自分たちの土地を得るという神のご 計画は受け入れるのですが、現代のイスラエル国家建設のときに示した「暴力」は、キリストの教えに反していると考えます。もしかした ら、もっと平和的な方法があったのかもしれません。
 それゆえに、わたしは、聖書に従って、すべての民族が悔い改めて、キリストの側につき、ユダヤ民族もそれに含まれる日がくると確信 はしているものの、そして、メシアニック・ジューが生まれるのもすばらしいですが、シオニズムに賛成していません。
 イスラエル建国のときに示した、先住のパレスチナ人に対して示したのは暴力そのものであり、マレーシア大統領のマハティールさんが おっしゃるように、むき出しのテロリズムであったというのは間違いないからです。

 イスラエルと米国の関係において最も不可解な部分とされるのが、米国がテロ国家のような建国のしかたを示したイスラエルを支援して いるとみられるところです。米国で影響力のある人々に、たとえば映画監督のスピルバーグなど、ユダヤ系の人々がいて、政治的な力を行 使しているのであろうというみかたと、いわゆる「福音主義プロテスタント」のなかに、再臨を待望する教えのなかで、「イスラエル」が 再臨の鍵となるという教えをもつ人々があり、時の政権にたいして一定の影響力をもつとみなされるのでした。つまり、熱心な信仰の実践 として、イスラエル支援を受け入れているというところに大きな影響力がみられます。
 大義名分があったら、暴力さえ肯定できるという考え方。それがイスラエル建国の基礎となった考え方です。「大義名分」という意味で あれば、かつて、太平洋戦争勃発の頃、「神の国ニッポン」と旗を揚げ、オリジナルの神道にはみられない「国家神道」が創り上げられま したが、もともと人の空想によって生まれた「空疎な根拠」であったため、“高天原がいったどこにあるのか”という、当時とても本質的 といわれた議論があったとはいえ、戦争をはじめられたらいいというのが眼目なら、“高山原がどこにあるかだの、そんなのはどうでもい い”とされたのでした。
 ただし、もともと、太平洋戦争そのものが、米国から仕組まれたものであり、先に敵国から攻撃させ、戦争の土俵をつくるための口実を 得るのが最初からの計画だったのであり、戦争に入り、原爆など武器生産に道をひらいたあと、徹底的に支配するのが最初からの狙いだっ たとされるため、“いったいこれが日本がオリジナルで発想した戦争なのか”とはいえるのかさえ疑問です。
なぜ、はじめから負けるとわかっていた戦 争を、車を横からおすすような無理をしたのか、わたしにはいまもわかりません。
 つまり米国からみれば、ヒロシマ・ナガサキの原爆投下すら、当時、すでに戦果はみえていたのであり、実戦では使う必要性もなく、 「せっかく製造した原爆だから、戦争中だから、使用できるかどうか実験した」のが狙いだったとされています。

 米国が建設されたときは日本とは違い、米国人は「ピューリタニズム」に基づいて行動していました。しかし、同時に、「アメリカンイ スラエル」という考えかたから、「イスラエル」を模範として、新天新地の開拓や当時インデアンたちにたいしてとった“暴力的手段”を 肯定できた背景として、旧約聖書のイスラエルによるカナン侵攻があったのは否めないのでした。米国が、聖書の平和と暴力としての武器 という、あえていえば「二つの基準」をもつといわれるとき、米国はずっと「イスラエルを模範とし続けてきた」といえるのです。

 キリストの教えではなくイスラエルに範をもとめるというとき、米国流ダブルスタンダードとでもいえるのであり、とても「キリスト教 国」とはいえません。平和といいながら、一方で、暴力を肯定できてしまうのです。
 武器はもっている、しかし、使わない。武器をつかうのはきわめて限定的。国民を守るために限るという日本国憲法の平和主義がもっと も聖書に近い考え方です。
 いいかえれば、米国のおこなう戦争のため、日本人が身を挺しても闘えというのは、憲法にも、そして聖書にも反しているとわたしは考 えます。