Tokyo 8月2日(水)
         
 
  「てきとう」と「いいかげん」
 

  なんでも「てきとう」というのは、両方とも、現代語として良い意味ではつかわれま せん。
 たとえば「適当にあしらっておけ」とは、上から目線の人を見下したような態度があります。「いいかげんにしろ」は、おおよそ、 他人を叱責したり、キレたりしたときの言葉。
 「適当にしておけ」とは、これも、親が子どもが夢中になっているゲームを止めるなど、マイナスのイメージがつきまといます。

 けれども、「適当」といえば、クスリのさじ加減など、職人の世界では、「適当」がわからないうちはまだ半人前。本物の職人は、ただ ちに「適当」がわかります。適当な高さ、適当な強さ、適当な幅、そして適当な量。いずれも良い意味で適当がつかわれているのであり、 わたしは語源を詳しく調べたことはありませんが、「適当」というのはものすごく大切だと考えます。
 適当がわかならいと、マニュアルに頼るようになります。言われたことしかできません。自分にたいしてばかりでなく、他人にたいして も、型通りのことしか見えないために、適当がわからない人と付き合うのはとても骨の折れる“仕事”となります。仕事ではなく人間関係で 疲れるといた場合、およそ適当がわかっていない上司のもとで仕事するのはそれこそストレスになるに決まっています。

 適当がわかるためにどうしたらいいか。修行と称して、昔の人は丁稚奉公に出ました。数年から数十年を経て、「適当」を習 得し、りっぱに職人となった暁には、のれん分けであり、独立の時が訪れたのでした。
 「いいかげん」も、良い意味でつかわれません。「いいかげんやめておけ」「あいつの仕事はいいかげんだ」とか。
 しかし、「良い加減」は、たとえば風呂の温度。「いいかげん」を知らなければ、風呂に入れないでしょう。

 聖書には、「熱くもなく、ぬるいので、あなたを口から吐き出す」とあって、自分なりに考え付いた“熱心さ”をもって、神が要求され ていることだと的をはずした考えに陥りかねません。
 おさえておきたいのは、神への態度として、「いい加減な態度」は許されません。パリサイ人たちは形式主義に汚染されていたため、形 を守ったり見た目を整えることが“熱心さ”だと自認し、自分たちの思っている型にあてはまらない罪びと・遊女・取税人たちを非難しま した。パリサイ人たちは神の教えに忠実だったのではなく、自分たちの言い伝えや勝手に作り出したしきたりを「神化」しているだけだっ たのです。いいかえれば、パリサイ人たちは、自分たちもそのように自覚し、他人からも、熱い人たちとみなされていたのです。ところが それが神の心からすっかり離れていたのはまったくの皮肉でした。
 聖書のいっている「熱心さ」とは、「弱さ」のなかで、打ちひしがれた社会的マイノリティーへの態度を変革するように求めているので あり、“ベッドにあわせて人の足を切ってしまえ”、ではなく、“自分の身丈にあったベッドをつくりなさい”という意味の教えなので す。
 ほんとうに、「適当」の全部の意味をわかっておられるのが神です。本当の意味の「適当さ」に近づこうとして人が努力するのです。そ れが人にあわせて地球環境を創造された神の心であり、神の心に近づこうと願ったら、隣人のための最善、つまり「適当はなにか」を会得 しなければなりません。