Tokyo 7月29日(月)
         
 
  「インクルーシブ教育」について   
 

 「れいわ」の木村さんが、何度かおっしゃっていた「インクルーシブ教育の推進」は、 言葉としてあまり浸透していないと思われます。
 英語で、inclusive education 「統合教育」と訳されてきました。
 既存の学校教育は、個別対応ではなく、「健常」と「障碍」を分離してきました。以前は、普通学級と、特殊学級に分けられていたとこ ろが、2007年「特別支援学校」として普通学校から分離統合され、別のポリシーのもとにおかれるようになったというとろは、あくま で行政の都合によります。
 「支援」という名の差別であるというのが、障碍をもつ子どもや子どもをもつ親の実感だったのは否めないのです。
 同じ学校内に、特殊学級があった場合、偏差値競争にあけくれる学校サイドからすると、“平均点”を出しにくくなるのは当然で、知的 障害のある子のレベルと同等の試験を課することは不可能であるに違いないからです。ところが、文科省は、学校にたいして「平均点を上 げよ」と指示してきたわけで、そのための努力が課せられた一方で、普通学級と特殊学級を“交流”というかたちで、つまり、ある科目に は、特殊学級の子どもが参加できるというかたちで、“ノーマライゼーション”が実現できたということにしていたのでした。
 投合教育は、「障碍をもっていてももっていなくても、同じ場所、同じ教室で過ごせるように」という親たちの運動から、部分的に実現 してきたという経緯があります。
 つまり、統合教育によって、障碍をもつ人とどう過ごしたらいいか学習することになるのであり、弱者に優しくなるという人格教育の面 ばかりでなく、インフラを整備する側に立つとき、障碍者の暮らしやすさを考慮した「思考回路」が訓練されるという意味でもあるのでし た。
 障碍を持つがわからいえば、“特殊学級”は、特別扱いされているというところであり、自分たちは「普通ではない」という劣性をもっ ているのだという無意識を養われてしまう場となり、深刻な差別意識や、意識ばかりでなく、意図的に差別したり、優生思想が支配するよ うな暗黒時代には、抹殺されるような恐怖を体験するようになります。
 インクルシブ教育がもたらすとき、「成績で人を推し量る」という考え方を捨てる反面、障碍も人に備わったひとつの能力であるという 別の価値観を養われるのであり、教科書で学ぶ以上のメリットが生み出されるという考え方があり、すでに欧米でさかんに取り入れられ、 効果を発揮してきました。
 教室ではなく、家庭をベースとしたホームスクーリングに批判する意見の一つに、「統合教育」を与えられないのではないか。障碍をも つ子どもと接する機会がなくなるのではないかというのがあります。障碍をもつ人たちが町で普通に暮らすという場所がなかなかみられ ず、インフラ整備も、全くこれからのような状態で、どこにいっても、障碍をもった人がいたような前近代であれば支障なかったのです が、「近代化」するというのを、あたかも障碍をもった人がひとりもいない社会であるかのような勘違いが生み出されているようなので す。ナチの真似事をめざいているアベ政権が優生思想の温床であり、障碍者にたいして、きわめて冷酷であるとあえて言うを待たないで しょう。こんな政権に任せていたら、日本の将来には、滅亡の道しかありません。相模障碍者殺傷事件の犯人、松井聖は、現行政権の考え 方に忖度し、実行に移したと豪語しているではありませんか。


 ホームスクーリングについて、家族や親せきに障碍をもつ人がいないかぎり、「インクルーシブ」の環境ではないとしても、親がどのよ うな考え方をもつのかに依存しています。
 親の思想や考え方に全面的に依存するホームスクーリングが危険だなどという学校関係者がおられました。
 もちろん賛成しかねるのですが、基本の考え方として、「障碍」をデメリットと考えているとしたら大きな間違いです。障碍があるから こそ見える場所もあり、障碍がないからこそ、見えない世界や場所もあるのではないでしょうか。 
 わたしは、今の学校教育が、子どもを劣化させ、思考回路をダメにし、愚かな民を増やすことに加担しているとみていて、むしろ、子ど もを健全に育てたいなら、ホームスクーリングをすべきだという考えです。
 その場合、やはり「インクルーシブ教育」の趣旨を受け入れ、ホームスクーリングにおいても、障碍をもった人たちとの交流の場を積極 的に実現すべきであり、これは個々の家庭においてというより、ネットワークの課題なのだと思います。