Tokyo 7月15日(月)
         
「交付金」という罠
 

 
 たとえば、ミッションスクールの例。政府への批判を控えなければ学校を維持できなく させるための方策とは交付金、すなわち、名目をかえた懐柔のための金であり、諸外国の例をひくまでもなく、政府に批判的な言論を封じ るため、政府がやってきた方法は、年間数億などのまとまった金を、返済義務なしに、認定された大学なり学校にたいして無条件に流して きたことでした。

 「金を愛することはすべての"悪"の根になります。」
 やはり、タダより高いものはなく、補助金を受け取った後のツケは、学校の創立精神が喪失されるばかりでなく、政府への批判精神の牙 を抜かれるに至るのでした。
 つまり、文科省のやってきた「学校懐柔策」のひとつとして、たとえば、年間数億という金を受け取らせたあと、「政府からの補助金が なければ運営できない体質」が作り出されるのが見届けられたのち、「書類に不備があるので、今年度の補助金は見送る可能性がある」と かを示唆するのでした。
 そこで、「すでに補助金がなくては運営できない体質」になっている大学は、必死になって、文科省からの要求を飲まなければならない ようになり、要は、そのようにして、政府への従順な態度が引き出された後、「必要要件」が満たされたといって、"例年通り"支給が決 まるという筋書きが決まっていたわけで、そのあとは、何でも、「金を出しているのだから」と、どんな本を買えとか、何を整備せよか、 どんな規則をつくれとか、なんでも政府の言いなりです。
 このような巧妙な懐柔策は、これまで、政府が学校や政府批判をしそうな団体などにたいしてしめした「手口」もしくは「常套手段」 だったといえます。
 騙されてはなりません。
 政府からの大金は、純粋な意味の補助のためではなく、政府の言いなりにさせるための常套手段です。
 「補助金がなければ維持できない体質」をつくりあげて、政府批判をさせないようにするのがほんとうの狙い。
 公立学校校はもとより、私学も、そして民主的な手続きを経て生み出されたどんな政党にたいしても同じです。
 政府にたいして、経済的に自主自営の精神をもてるのかどうかが鍵。
 何のための要(かなめ)なのか。
 ほんとうの意味の民主主義が団体において維持されるかどうかの要(かなめ)となります。 

 米国のバーバード大学など、私学の精神を政府に奪われないため、政府からの「補助金」をいっさい受け取らず、主にハーバード大学卒 業生らのつくった「基金」によって、学校が維持されているため、学問の自由や、政府への健全な批判的精神が削り取られないのでした。
 米国のいくつかのホームスクーリングネットワークもまた、政府の「補助金システム」の意図は、自由な精神の育成にあるのではなく、 むしろ、政府批判の牙を抜く作用を期待しているのだということから、経済的自立と自主自営を存立し続けるための基礎とみているのでし た。
 「れいわ」が、政党になると、党首会談などによばれるなど、いろいろな"特権"が用意され、同時に、億単位の補助金が約束されたあ と、一番懸念されるのは政府からの「政党交付金」をあてにしなければ運営できない体質が生まれることであり、「共産党」が常に、日本 国憲法の原則に沿った発言を維持できているのは、すでに述べた趣旨から「政党交付金」を受け取らず、「自主自営」の体質を守っている からなのです。とうぜんながら、共産党は、「政党交付金は憲法違反である」という判断を示しています。
 「れいわ」の候補者の演説は、すべてが珠玉のような魅力を放っています。しかし、現行政権がもっている「補助金の罠」は、官僚支配 体制や隠れた米国からの支配を可能にさせ、やがて民主主義そのものを破壊するようになるでしょう。
 
 もしかしたら、「公明党」もかつては、美しいスローガンのもとに動いていたのかもしれませんが、「宗教法人たいしての非課税」の枠 を利用と潤沢な政党交付金によって、政府の意向という風にむけて、ひたすらたなびくだけの、風見鶏のような体質を体現してしまったの だといえます。 その意味で、「政党」になっても、共産党のように、すべての運営費用を、政府の助成金を拒否し、「民間から寄付金」だけに頼ると決めることができたとき、 「れいわ」への期待は本物だとなると思います。
 すなわち、もし補助金を受けるようになったら、山本さん個人の志が高い低いのレベルではなく、「政党の結党精神」を根こそぎ破壊す るために、敵陣から放たれた"刺客"とみなければなりません。
 「政党交付金をどうみるか」、それは「れいわ」がいまのままの「純粋性」を保てるかどうかの試金石となります。