Tokyo 7月12日(金)
         
れいわ革命
 

 
 こんかいは、創価学会信徒の野原さんを応援したいと思っています。
 ただし、異なる信仰でありながら、政治的に「共闘」するという考え方は、日本のキリスト者にとって、ものすごくハードルの高い応用 問題でしょう。
 言うまでもないことですが、「れいわ」を応援するからといって、創価学会に改宗せよとかいっているのではなく、創価学会内部の「良 心の 声」にうったえて、「いつまで善人の沈黙を続けているのですか」というところに、みえるのは、山本さんは日本を蝕んでいる「病巣」の 本質が、政権にぶら下がっている「公明党」という宗教団体を母体とするグループの存在であり、執行部に反抗するものは「追放される」 というカルトの体質をもっているからだとみているからなのでした。
 それが、ただの組織票というだけではなく、カルト集団の特色をもっているというのが、野原さんの演説によって明るみに出されたと思 います。これまでの選挙などに全くみられなかった、ものすごく画期的なことです。

 カルトとみなされる丸森グループも、脱退を許さないグループでした。
 グループの外に出ることは「呪われたものとなる」とか「地獄に行く」と脅されていたわけで、そのような内部反乱を許さない悪魔の体 質が、現行政権の腐敗を引き起こすトリガーとなっているとみておられ、野原さんが明確にしめしている憲法の精神としての、「主権在 民」「基本的人権」「平和主義」への共鳴を呼びさます「創価学会の良心の声」となり、大きな転換点となる可能性を秘めているとわたし は考えます。
 創価の票田は、正義と悪の二元論によって分断されなければなりません。
 正義か悪か。
 臆病風にふかれて、頭でわかっていても今の公明党にとどまるようなら「悪」。
 勇気をもって野原さんの側につくなら、それが「正義」です。
 これくらいはっきりしていることはないのですよ。

 キリスト者であり、カルビニストを自称しているなら、異なる思想や信条にたいして、「寛容」でなければならないと理解していなけれ ばなりません。一般恩恵論の詳細をここでのべませんが、たとえば、国民の権利や自由が押さえつけられている社会のなかで、ひとつのお おきな主張として世論が形成されていくために、「寛容」と「共闘」は、絶対に必要です。
 政治的な良心をもつキリスト者で、政治の腐敗に心をいためて、共産党支持を表明してきた人はかなりの数だったはずです。山本さんの 主張のかなめとなるところは、今の政治に必要なのは「愛」と「お金」であると語られます。
 ただし、「金銭を愛することが、すべての悪の根」(テモテへの第一の手紙6章10節)という聖書の一節を献上したい。
 お金と権力は、歴史を通じて、罪ある人に腐敗を呼び込んできたからです。
 これから予想される、政党助成金だって、「麻薬」みたいだと思います。それが、立憲民主党の轍だったとみえます。共産党が、どうし て首尾一貫した立場を貫けるか。それは、「政党助成金」なる懐柔の罠をあえて受け取ってこなかったからなのでしょう。

 「れいわ」が、共産党の語っていることにかなり重なるとしても、共産党はそこまで言い出しませんでした。めざすところ「エリートに よって管理された官僚国家」であるとか、「科学的という"不思議なおまじない"を信じている」からなのかもしれません。
 「れいわ」が、少なくとも、安冨さんを候補にあげているとこから読み解くと、とにかく国家の形成の基礎に、これまでのように強い官 僚体制を求めるのではないでしょう。
 「オキナワの声」を全国にひろめようとしていますね。
 米国を尊びつつも、自国の立場や言うべきことを言えるのかどうかが、冷たい言い方かもしれませんが、米国とどう向き合うかは、「れ いわ」の試金石です。
 優秀な官僚も必要。公共事業も必要。公務員をもっと増やすべきだというのでしょう。このあたりは、政治的にすごい保守です。
 「優秀な官僚を有効に使える政治家が自公政権になかった」という山本さんの主張に賛同できます。
 あまり楽観的になるのは戒められなければなりませんが、戦後の日本の歴史のなかで、個々の国民が、主権者としてはじめて明確に政治 的なアスペクトから政治参加できているのです。「れいわ」は、マハトマ・ガンジーが提唱した「非暴力直接行動」による日本民主化の旗 印になるかもしれません。
 それゆえに、このムーブメントは「れいわ革命」と呼ばれるべきなのではないでしょうか。