Tokyo 7月10日(水)
         
小さな声を聴く耳をもっているのか
 

 
 党首討論で、「大切なのは、国民の生活なのか、政治の安定なのか」という話題。そこ で、野党から「国民の生活のほうが大切」という意見にたいして、公明党党首の山口さんは街頭演説で、「政治の安定があっての、生活の 安定だ」とおっしゃいました。
 これをききながら、わたしは、かつての日本、あの塗炭を舐めるような生き方を強いられた戦前戦中のドキュメンタリーをみているよう な、めまいような感覚を覚えました。
 いえ、かつてのプロテスタント教団がまさに、権力に尻尾をふる、今の公明党=創価学会そっくりだったからです。自分たちの存続を守 るためだけのために、毎日曜の礼拝ははじまる前に(讃美歌ではなく)、君が代を斉唱し球場遥拝をおこなっていたのです。

 つまり、山口さんの言い回しは、政治の安定こそが第一の目的であり、国民はそのために務めなければならないという言い方。いえ、安 定した国民の生活を支えるのが国なのだから、支える側がしっかりしていなければと聴いた人がおられるかもしれないですが、全く意味が 違います。
 この「国民の生活を守る」というときの言い方が「闇」の部分。つまり、「既得権益」を守り、「生産性」のあるなしで人の生き死にを 選 別しようとするグループの"腰ぎんちゃく"であることを是として、権力の庇護のもとにある"うまみ"を失いたくないというだけだとい うことがはっきりしたのでした。国家を支えて、イエスマンであること以外に、たとえば政権に異を唱えることなど全く想定されていない のです。
 「自分の生活を安定させたかったら、みなさん!!無駄な抵抗などせずみんなで権力にシッポを振りましょう」と言っているのと同じな の ですよ。
 創価学会の原点に返るといわれます。
堕落したのは「執行部が悪い」とだけいえるのかどうか。
 わたしは、
「政治権力の庇護におかれることで安定する」という考え方と決別できるかどうかが鍵なのではないかと 考えます。
 もし「再生創価学会」なるものが、生まれるのだとしたら、 たとえ、権力と対峙したとしても、野原さんのおっしゃるように「民衆と ともに生き、そして民衆とともに死ぬ」というところを最終的な布教の落としどころとしたうえで、「政教分離原則」をどのように捕える か、「公明党」とは別の政治組織が生まれる可能性があるのだとしたら、「れいわ」の野原さんの働きが、「良心の叫び」として天にとど き、大きな変革をむかえるのかもしれません。いえ、創価執行部のやっていることに反旗を示し、除名され宗教的にいえば「呪われたもの になる」のを覚悟の上で、あえて「良心の声」をあげておられる野原さんの勇気は、わたしのようなキリスト者を含めて、すべての宗教者 が見習うべきだと考えます。その姿こそ、かつて戦中獄中死まで見出した信仰者の「オリジナルの」生き方だからです。

 山本さんの決断は、そのような「宗教談義」などのはなしではなく、「日本民族の再生」にフォーカスしているとみられます。
 キリスト教も歴史的な経緯から深く反省しなければならないのであり、いわゆる明治時代のキリスト教は、「世の権力に食い込む」とか 「世間に認めてもらう」とかに熱心でした。戦中も、そして戦後も、権力に媚を売るという体質は温存されてきたのです。

 再生された創価学会というのはどういうものなのか。
つまり、「世からたくさん褒めてもったら偉い」などいう「野心」を追い求めるのではなく、ほんとうに、貧しい人々に 仕え、たくさんの人たちに心に幸福と平和をもたらすことに徹底できるのかどうか。 池田さんは「数えきれないほど の名誉の賞をコレクションしたり、神格化されたように人から褒められる」のが趣味みたいな気風であったとおみうけしたのですが如何!
 わたしは、今回は太郎さんの心意気に惚れて、参議院選挙では、野原さんを応援すると腹を決めています。
 しかし、「池田大作さんへの尊敬」だけは、正直ついていけない。
 野原さんに「日蓮がついている」みたいなのも、励ましのつもりなのでしょうけれど、やはりデリカシーがみられないようで、キリスト 者ばかりでなく、異なる宗教者の心を逆なでするものです。

 もしそうだとしても、それとこれとは別。「ゆでガエル」のようになって、気持ちよくなり、逃げ出したくなくなった上でゆっくりと死 にいたろうとしている日本国民。それにたいして、やけどしてもいいから、「鍋をひっくりかえしでても命だけは救いたい」という山本さ んの現状認識を共有しなければなりません。
 山本さんは「いやなら出ていけ」とかいう方ではないと想像しているので。
 いったい、わたしのようなキリスト者の「小さな声」を聴いていただけているのかどうかわかりません。

 「小さな声を聴く力」。野原さんが、「大きな声を聴けないのに、どうして小さな声などきけるのか」というのは正しいのです。つまり、民主主義の手続きを 経て、辺野古埋め立てに反対している民意が明確に示されているというのに、公明党は自民党とともに「オキナワの心」に耳を傾けようとしていないからです。まさに、正気の沙汰とは思われません。
 ただ、わたしからみると、そもそも創価学会が権力と妥協しはじめたときから、良心を失っていたのではないでしょうか。