Tokyo 7月8日(月)
         

十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリスト ではないか。自分と私たちを救え。」と言った。

 
 主イエスが十字架刑で死を迎えたとき、それぞれ右と左に2人の犯罪人が死刑になって いました。
 真ん中の場所には、本来はバラバが架けられる予定だったところ、「十字架につけろ」という周囲の声に押し切られ、「自分を王様だと いっているこいつを死刑にしないと、あんたはローマに反逆したことになる」と脅され、地方執政官だったピラトはしぶしぶ死刑の許可を 下したのでした。
 3人は「犯罪人」として、釘で木に打ちつけられました。
 両手を釘で打ちつけられ、両足には「支え木」などなくて、両足首を重ね、1本の釘で打ちつけられていたのです。体重によって、両手 の傷口が広げられ、一本の釘が両足首の傷口を引き裂きました。死ぬまで架けられていて原則埋葬はなし。
 主イエスの死体がを葬られたのは、当時、有力な議員であったアリマタヤのヨセフがユダヤの習慣に従って埋葬したいと申し出たからで あり、十字架の上で悶絶死した罪人のほとんどは、死んだあともそのまま放置され、やがて鳥に啄まれ猛禽の餌になって、骨だけになり、 わずかの肉片さえ残らなかったとしても、すべてが「自分がやったことの報」とみなされるのでした。

 両側の犯罪人たちが「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と「悪口」を言ったと訳されています。
 訳語でたいたいの雰囲気は伝わりますが、しかたないとしても、やや丁寧に過ぎます。
 もとの聖書言語(ギリシャ語)でも、実際の雰囲気を伝えるには足りないと思われますので、やや、翻訳というより、「文脈読み」も 入っているのですが、実際には、こんな雰囲気のだったかもしれません。

 なんだ!おまえ、自分を救世主だとかいってただろ、それなのになんだよ、そのザマは。
 偉そうなことさんざんコキやがってヨォ!

 おまえ、自分をキリストだとか言ってやがったんだろぅ、
 だったらよォ、まずテメエを救いやがれ。そして自分と俺たちを十字架からおろしてみろヨ〜。
 救世主だぁ?!それができなくて、何が救世主だよ。嘘コキやがって、このクソ野郎が!
 
 これは野次といえばヤジに近いのですが、そのあと、主イエスが述べた言葉は、
 
 父よ、どうか彼らをお許しください。彼らは自分がなにをしているのか(言っているのか)わからないのです。
 
 主が許しを求めているのは、周囲で「十字架から降りてみろ」と叫んでいる人々ばかりではなく、両側の罪人のためでもあったのでし た。
 情状酌量という言葉があります。法律用語です。罪が軽減されるとき、それが罪だと知っていたか知らなかったかが考慮されます。
 
 無知のため、何も知らなかった頃、主イエスについて罵詈雑言をいい、「キリスト信徒」を「邪教にとりつかれた愚か者」という意味で 「クリスチャン」と悪口を言った人々も、時がきて、信徒に加えられていきました。
 やがて使徒となっていったパウロは、刑場にいなかったものの、キリスト者たちを迫害する側に立っていたのでした。

 左右の犯罪人のうちの一人が、主の言葉を聴いて、「自分は何も知らなかった」と悟り、そして回心しました。

 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けて いるではないか。 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
 
 「力」というとき、権力とか、威圧感のある声とか、暴力もふくめた強制力を思い浮かべるでしょう。
 けれども「人を許す」ことは力なのです。
 「許す力」は、自分を迫害する側のため、なぜ迫害の側にいるのか、どうしてそういうのか理解していなければなりません。つまり、迫 害している人の何が最善かを理解した上で、「正義を迫害する側にいることによってもたらされる災いが来ないように」祈るのです。
 それを、「心が広い」というのかもしれません。ただ「心が広いか」「狭いか」というだけでは倫理尺度としてものすごく貧しいので す。
 自分とって心地よい人のためばかりでなく、自分にたいして悪口をいい、自分にむかってつばを吐きかけ、敵意をもって石を打ちつける ような人のためにも、「最善」を願うところまでいくが、キリストに倣うという生き方。石うちの刑で死んだステパノのように。
 これが隣人愛です。
 キリスト信徒でなくても、山本さんみたいに隣人愛に富んだ方は少なからずおられます。
 むしろ、実際の行動についていうなら、「キリスト信徒だから優れている」となどはいえないでしょう。
 これみよがしではなく、たまたま人目についただけの、ごく自然な「隣人愛の実践」。
 そいう場面に巡り合うと、わたしなど、すごく良い品をゲットできたときのようなラッキーな気分になります。
 なんでも自分中心にしか行動できない人が増殖している日本で、{(自分に悪口を言う)そんなあなたも幸せにしたい」という山本さん の愛の実践現場に接すると、百万の美辞麗句より、わたしなど単純なので、その一言で「おちます」。
 あの純粋さは、神が与えたひとつの才能でしょう。
 彼は、べつに人を陥れようとか、自分の側に引き込みたいとかいう意図からではないのでしょう。

 おそらく、ほんとうの「隣人愛」は世間に数えきれないほどあるのでしょう。ほとんどが、「これみよがし」におこなわれるものではな く、ほとんどが、母がその子にたいしてするように、父がその家族にたいしてするように、人の目に留まらないようにおこなわれているの だと考えます。「良い行いは、隠れたところでおこないなさい」が主イエスの教えでもあり、熱心なキリストのしもべたちは、人に知られ ないように、ただ主の目に受け入れらているというだけの隠れた隣人愛を実践しておられます。
 パウロが言うように、すべての行動や言動に「愛」がなければどんなに偉そうな美辞麗句をならべても、所詮むなしいのです。
 愛はたくさんの罪を覆います(ペテロ書)。
 愛は、罪を完全に許す力はありません。罪を完全に取り去る権威は人には与えらえていないからです。
 しかし、インド独立の立役者だった「マハトマ・ガンジー」がすばらしい模範を示してくれました。
 キリスト信徒でなくても、そしてキリストに倣った結果でなくても、優れた隣人愛が実践できると考えます。
 神は、そこに癒しと平安と幸福を見せてくださるでしょう。
 山本さん、そして創価学会員の野原さんにも。