Tokyo 7月6日(土)
         

 期待と懸念

   
  日本の状況が悪化してきたのは、憲法の政教分離原則に反して、創価学会=公明党が権力 と癒着し続けてきたからです。
 ヤスクニ問題として、政教分離原則をめぐる裁判が各地でおこされているのを横目でみているため、「国立戒壇」とは、いまでこそ声高 に言わなくなったものの、池田さんが目指した宗教的指針が届く先は「国立戒壇」(国によって認定される礼拝場所)実現があったのでは ないでしょうか。それは、 今も、根本的にはかわっていないのではないでしょうか。創価学会は射程範囲は全国民および全世界としているのであり、やがて政教一致政策により、結果とし て国民から信教の自由を奪うところにおかれていました。カルトとされるオウム真理教もしかり、政治権力と結びつくというのは「幸福の 科学」にもみられる考え方なのでした。
 いったん権力を家中におさめたとき、自分たちの優位性を確保するばかりではなく、自分たちを攻撃する存在をゆるさず、自分たち のために「生きる(生活する)場」さえ分捕りもののように占有をしはじめるというのがカルト思想の特色です。
 いえ、自民党と結びついた宗教政党である「公明党」によって、すでにこの国はそうなっているようにみえます。
 わたしのとらえ方が間違いであったならいいと、どれだけ願ったことか。

 「目的が達成されるためには、たとえ悪であっても、やむおえないダメージとして許される(コラテラルダメージ)」というカルト の特色は、創価学会にいまも温存されていると考えます。 
 キリスト教を含めて、「宗教」は政治運動として形成されるべきものではなく、民衆の心に灯をともす「魂に光を与える運動」なのであ り、創価学会もまた、当初は、庶民の心の救済をめざしていたのでしょう。
 たとえば、プロテスタントの場合、19世紀にたくさん の賛美歌がつくられ たように、もともと魂を救う「歌声運動」でした。19世紀のプロテスタント教会は、政治からコントロールされたり、政治にたいして悪影響を与えないため、 政治的権力と信仰を峻別することに強くこだわりました。
 心の宗教であるべきところが政治権力によってオリジナルの精神を歪められないため。そして、反対に、政治権力が宗教に よって歪められ、特定の既得権益が「宗教」の名をかたって身を守 るようなシステムを生み出さないためです。
 、今日の、日本の政府の堕落を生み出してきたのは、創価学会が「公明党」という政治団体を傘にきて、政治権力に庇護をもとめてた結 果です。
 「れいわ」の躍進により、憲法の政教分離に基づいて、オリジナルの民主のための仏教思想にたつ「新生創価学会」が生まれるきっかけ となるのか、そこまでなんともいえないでしょう。
 もしかしたら「新生創価学会」が生まれて、憲法の「政教分離原則」を尊び、権力の傘下におかれるのではなく、名実ともに、民衆の平 和と幸福実現のため活動するようになれるのだとしたら、それはそれで、すばらしい出来事なのではないでしょうか。

 しかし、事は「創価学会が原点に立ち返ったら改善する」だけでとどまることは許されないのです。最終的には、政教一致の状態から解放されなければなりませ ん。
 創価学会が「政治的プログラム」として、「国立戒壇」をめざしていたのは過去のことなのか、それとも今もそうなのか。
 もし国全体を「仏教」で埋め尽くしたいという願望があったのだとしたら、それがオリジナルのものであるのかどうかどうかは別としても、「公明党」への信徒の期待は、全国民をあげて「仏法」に従うべきだというところであり、仮に「国立戒壇」が実現してしまうと、わたしのようなキリスト者は実質的な「迫害」のターゲッ トになるのは自明のことでしょう。「れいわ」が働きかけている「良心の声」が、政教一致の生み出す問題に取り組むまで行くのかわかりません。信心の政治的 強要。そして受け入れないものへの迫害はかつて国家神道の時代にみられましたが、いまや、「創価」がその位置に立つことは絶対にない という保障はないのです。
 かつて戦前戦中は、創価学会はキリスト教と同様に、排斥されました。国家神道が生み出した現人神に額くように強要され、天皇を礼拝 しなければ迫害され、殺されたのです。GHQが掲げた「占領政策」のなかに、「国家神道というカルトからの脱却」がみられます。政教 分離原則は、歴史のなかでさまざまな国で法制化され、そこに過ちを繰り返さないという決意が表明されているともいえます。かつては国家神道。そして今は創価学会 による政治の乗っ取り。これが病巣です。

 「沖縄固有の民主主義」といういいかたは存在しないと思います。
 民主主義は、今の憲法のもとにある日本国民全員のものなのです。ところが、玉城デニー知事が登場したとき、偽善と虚飾に彩られた偽 の民主主義にたいして、正真正銘の民意が集結した民主主義が沖縄で実現しているとみられ、「れいわ」の野原さんもおっしゃるように、 それは「全国民」にも共有されなければなりません。
 しかし、繰り返しますが、政府が堕落をみてきた根幹には、公明党が政治権力とが結びついた「政教分離原則違反」状態があるのです。
 それゆえに、日本の腐敗の病巣を断つためには、「オリジナルの創価精神を取り戻せ」というだけですませてはならないのであり、「どんな宗教でも、政治権力と結びついてはならない」という政教分離原則が徹底して自覚されていなければなりません。
 今の政治状況に心を痛め、良心の痛みを感じながら、暫定的に「共産党」を選択していたキリスト者がいた場合、「れいわ」にシフトす るためのハードルは、山本さんの真意とば無関係に高くなったと読んでいます。
 それでも、死にそうになっている日本です。山本医師の用意した処方は、そこに救いの光をてらすための「劇薬」のようです。
 キリスト者は信仰生活の応用問題として、異なる思想信条にある人々との「共闘」を学び、乗り越えなければならないのであり、「寛 容」と「共闘」を学ぶところから、これまでの民主主義社会が形成されてきたというのも、間違いのない事実なのですから。
 わたしには、野原さんの劇薬は、優れた「特効薬」となるという予感さえあります。
 もし、山本さんが「創価信者」になってオリジナルの創価を取り戻すところに最終的な落としどころをもっておられるとした ら、これから、「れいわ」が、政教分離原則や「信仰の自由」をどれだけ明確に打ち出せるのかが鍵となるでしょう。
 野原さんの街頭演説には、池田さんの言葉だけでなく、キング牧師の「もっとも恐るべきは、善人の沈黙である」ということばが引用さ れて いました。さらに「平和 を願い憲法を尊ぶのであれば、どんな宗教でも良い」というくだり、わたしとしては、「いったい、創価信徒である候補者を応援できるのか」という迷いは、そ のことばでふっきれました。
 それが「今のところ」なのか「これからもずっと」なのか、正直いうとわかりません。
 「良心をいためている創価学会員」にむけて、「いつまで善人の沈黙を続けているつもりですか」という呼びかけをされたのはすごく大 きいと思います。
 山本さんの望遠神慮。いえ、もし、熱心な宗教者であれば、それぞれの信心に従って仏教徒なら「仏」キリスト教徒なら「キリスト」の 姿を山本さんの言葉や行動に見るに 違いありません。
 
 「信仰の自由はある」だけに留まる問題ではなく、現行の平和憲法が示している原則として、政治と宗教が結びついてはならな いのです。言うまでもないですが、政教一致は、「基本的人権」「主権在民」「平和主義」を壊すものだからです。

 けれど、かりに冗談であっても、「創価新選組」と改名するとか、嗚呼、山 本さん・・・、  せっかくここまで来たのですから、冗談でも良心あるキリスト者の心を逆なでするようないいかたはやめてください。