Tokyo 1月6日(日)
         
   自分の感じていること見ていること聞いていることに基づいて、そこに聖書を無理に与はめようとするときがあります。
 あるとき日 常生活のなかで発見した事実が、聖書のなかにもみられたとき。「聖書も同じだ」と感動するなど、別に悪いこととは思われないでしょう。考古学的な調査をし た結果が聖書を裏付けるといわれるとき、聖書の正しさが「考古学」でも裏付けられたと喜ぶ反面、そこに「聖書が人のつくりだした科学的思考によって支えら れる」という考え方が隠されているのを見逃してはなりません。科学の探究の結果、聖書の記事が裏付けられるということは、将来にわたってたくさん出てくる かもしれません。真理を発見する方法は、聖書などによるのではなく、科学によると考えることしかできないところでは、荒唐無稽と思われていた聖書が、“科 学の裏付けを得た”というところから、信徒になるための糸口を得た人もおられるでしょう。天地創造のとき、「地を従えよ」と命じられた人に与えられている 科学的思考や科学的な態度が生活を改善するのに役立つという議論ではなく、わたしは聖書解釈の方法にこだわっているのです。

 道徳的感心 だけで聖書を開こうとか、西欧文明の要の書物であるから、欧米の人々と会話するところで必要な知識だというところから聖書を読むのを勧める本もあります。 聖書にアプローチする道は多様かもしれませんが、聖書は最終的には聖書それ自信によって解釈され、聖霊が悟らせてくださるところまで引き上げられないと、 ほんとうに理解することはできないのでした。
 あるとき厳 格な禁酒主義の教職者のお話を伺う機会があり、、例のカナの婚礼の奇跡による「ぶどう酒」は、いわゆるワインではなく、“グレープジュースに過ぎない”と 断定しておられたのですが、飲酒がもたらす問題がどれほどであるとしても、さらに深刻な聖書解釈上の問題があると考えました。禁酒を聖書的な大義としてい るところから、文脈を無視し、聖書に書かれていないことを、自分のために引き出すという読み方が身に付いてしまうと、自分のハートに引っかかる箇所、たと えば“感動する”箇所を探し出すことになります。もちろん、聖書感度をもって読むことが可能というのはひとつの賜物であるに違いないとしても、聖書通読な どを通じて、どのような方法にせよ、つまみ食いではなく、信仰の訓練というところからすると、聖書全巻を読み切る訓練が望ましいのだと考えます。

 一日一章だ け読むという方法は、たとえばパウロの書簡は、はじめから最後まで通して読まれる手紙として書かれていますから、それほど長くないので、ときには、一章ご と分けるのではなく、全部読むというのも大切なのではないかと思います。一節づつ、意味を探し求めるというのも“職人業”なのでしょう。聖書は一節一語の なかにさえ、学び得る真理が隠されているからです。けれども、通読のプログラムとは別に、詩篇なら詩篇全部、箴言なら箴言全部、福音書全部は時間がかかる でしょうけれど、マタイの福音書だけを読み通してみるというのもすごく大切なのだと考えます。原語を学ぶとしたら、ギリシャ語テキストには聖書記者の“個 性”さえ浮かんできます。マタイは何を表現したかったのか、ルカは・・などという読み方もできるのではないかと思います。
 わたしはア ブラハムカイパーの影響で「聖書女性」というテーマで読むことがあり、ときどき説教にも使わせていただいていますが、ひとつのテーマを巡って聖書を読むと いうことは、いわゆるつまみ食いではなく、それこそ組織神学が構築されるための基礎とされると考えます。
 ちなみに、 原語の学びや神学的素養とは、なにも教職者の特権なのではなく、すべての信徒に開かれているべきであり、アポロの例にもあるように、すべての信徒が“神学 する幸せ”を実感できように導かれていると信じています。