Tokyo 1月4日(金)
         
   「わかりやすく言うと」とか「誤解を与えるのを怖れないで言えば」とか、このような言葉が差し込まれるような文章やお話はほとんどが、事柄を正確に伝えよ うというよりか、事実とは別のなにか誘導尋問とか操作とか、事実かどうかということとは別の力が働いていると勘ぐるようになりました。
 考え過ぎなのでしょうか。このような言葉を選ばなければならない脈略全体について猜疑心があるのです。
 それがただの性分から出ていないのは、たえば、ほんとうにわかりやすく語られているところでは、「わかりやすく言うと」などという解説はなにもいならな いのであり、そのような「下敷き」を聴く側にあえて与えなくてもいいし、これから言うことは“わかりやすい”のだとあえて説明する必要もないからです。
 わかりやすく説明するためには、説明すべき内容を把握していなければなりません。わかりやすく説明します・・・と言っておきながら、聞き手にとって話の 核心に注意がいかないように逸されていたり、なんのことはない、ただ“わかりやすさ”が演出されているだけであって、ほんとうは自分も分かっていないことを知られないようにしているだけなのに、それをあえて悟られまいとして見えない煙幕をはっているのではなかろうかと勘ぐる癖がついて います。
 もしかしたら、わたしだけなのかもしれません。
 けれども、ほんとうに理解した上で、なお、たとえば、子どもにでもわかるような“わかりやすさ”をもって説明するのは、ものすごく難しい。
 
 言葉だけで説明しきれないとして、図表や動画などを使うとしても、せいぜい“わかったつもりになる”くらいのところまでしか引き上げられないと思いま す。言葉だけで理解を引き出すというより、聴いている側が理解に勧めるように“道案内”をするのが関の山なのでしょう。
 おそらくそのような言語の達人はおられるのでしょう。たとえば、国語教師の大村はま先生のような方。
 けれども、大村先生も、自分の語ることについて“わかりやすく語ると”みたいな言い方はしないと思われます。
  
 せいぜい「自分が今までのところ達している理解の範囲に基づくなら」とかなら誤解されないで済むかもしれませんが、あえてそのように言うこともないで しょう。
 「誤解を与えるのを怖れないで言えば」・・・というのも、絶対に英語に訳せないです。
 英語はもともと、話ことばにせよ書かれている言葉にせよ、わかりにくさを排除した言語だからで、反対に鵺(ぬえ)的部分を残す日本語だから許されるとい うのでもないのでしょうけれど、言い訳のように「誤解を恐れないで語ると」と煙幕をはるより、聴き手に誤解されれるような言い方ははじめから選ばない訓練 を積むほうがいいというのが「いまわたしの達しているところ」です。