Tokyo 1月2日(水)
         
   神の介在を受けない「中立」が存在しないように、神が創造されたすべてにおいて「自動的」だとか「偶然」は当てはまらないのです。
 それでも創造主の人のなかに“介入された”とかにみえるような場面があるのは否めません。
 祈りに応えられて病が癒されるなどとか、主の名がたてられた集いのために、自然環境が特別な守りを受けるとか。奇跡というのは、人から見て奇跡的事象に 見えるだけであって、たとえば人体が動いているという現象は、微細な仕組みに至るまで、神の介在なしにはありえないのでした。
 人は数え切れない奇跡によって支えられているのです。
 「あなたの髪の数は数えられている」と主イエスは語られていて、人の生命が維持されるために神がなされている業の総体を見極めることなど、不可能なので した。朝目覚めて「心臓が動いている」のを奇跡と思わないでしょう。“あたりまえ”だからです。その“あたりまえ”とはもともと人の目線から、人が理解で きる範囲で言っている認識のことをさしているのであり、聖書を読むというのは、魂が養われれるためですが、聖書が神の視点を示しているため、人が生きてい く上でためこできた“あたりまえ構造”を常に問い直し、変えさせられるように促されるのでした。
 たとえば、弟子たちが「生まれつき目の見えない人」が道ばたで物乞いをしているのをみます。「彼がそのように生まれついたのは、彼が悪かったからでしょ うか。それとも、彼の祖先が悪かったからでしょうか」という意味の考え方について、弟子たちが身につけていた“あたりまえ構造”からいえば、そのような問 いは当然であり、難しくいえば「因果律」に縛られているともいえました。
 何にでもそうなった原因と結果がある。こうなったのは何かの必然があったからに違いない。この考え方は、学者からの問いであれば、すごく全うにきこえま す。いえ、科学者であれば、そのような「因果律」を前提にしなければ、学問そのものを成り立たなくなるとさえいえます。 
 ところが、聖書が示している別の視点は、「彼がそうなったのは、彼が悪かったのでも、先祖が悪かったのでもなく、神の栄光が現れるためである」というの であり、生まれてすぐに盲目に生まれてきたことが、神の栄光が現されるためであったとされているのでした。
 しかも、聖書は“運命論”を語りません。“盲目に生まれついたのは因果応報の結果なのであり、そのカルマを受け入れなさい”とは教えていないのです。聖 書の全体像をみれば、つまり組織神学の立場にたてば、復活のとき「信じているもののすべての盲目(障害)が癒される」という驚くべき事象さえ指し示してい るのですが、やがて盲目の人が“光を見ることができる機能を回復できる”という奇跡的な事象が含まれているばかりでなく、「見えないものが見えるようにな る」という、つまり、心の目が開かれるという事象のことがさらに大きな奇跡的出来事としてさし示されているのでした。人からみれば、心の目が開かれるなど “どうでもいい”無視できることにみえたり、視力が回復することのほうがはるかに大事なことにしかみえないにもかかわらず。
 主の目からみれば、心の目が開かれることこそが最大の優先事項だったでしょう。
 主がおこなわれた奇跡は、人の心の目が見えるようになることと、復活の日において「肉体の目が完全に回復される」ということを含みます。しかし、主がな される事にはいつも優先順位があります。心の目はすぐに開かれるかもしれません。心の目がひらかれないまま滅びに行くより、まずは心の目が聖霊によって開 かれることが優先されるべきでしょう。
 けれども、心の目ばかりでなく、盲目の状態から視力が回復されるという希望を、主の復活は示しているのです。
 そのため、どれほど主の降誕が大きな歴史的事件であり、同時に、主の復活は人にとってどれほど大きな希望の光となっていることでしょうか。