Tokyo 12月30日(日)
         
 聖 路加病院で医師を務めておられた日野原さんが、「百万人の福音」のなかで、聖書の文字通りの意味を否定する発言をしておられ、高齢者であっても現職のキリ スト者医師として、活躍されておられるのを見聞きしていたものの一人として、目を疑いました。
 もともと、「福音派」と呼ばれる戦後生まれのプロテスタントには“世俗から与えられた名誉”を尊ぶ傾向があり、日野原さんの発言を無批判で受け入れるか もしれないという懸念があります。「聖書は文字通りの解釈ではなく、実際に何がおきたかということと文字にかかれた事象とは分けなければならない(FactとDataが別であるとする)という現代神学がもたらした“毒気”の影響が日野原さんにあるのかもしれません。そして、その見えない破壊力は、キリスト者ばかりでなく世の尊敬を集めておられただけに、想像をはるかに超えているでしょう。
 聖書を文字通り読まないとは、つまり、たとえば日野原さんは、五千人に給食を与えた奇跡も、“食べ物”とされているのは“物理的に食べられる食事”のことではなく、た くさんの人が主イエスの教えに感銘を受けたという霊的な意味なのだといいます。そういえば、現代人にとって“キリストへの敷居”が低くなるという意図があるのかもしれませんが、そんな意図とは別に、ひとつの聖書解釈の原理が導入されるようになり、主の復活の記事でさえ、“そんなのは肉体の蘇生でなく、弟子たちの心のなかに師の教えが生き延びているという意味にすぎない”とみなされるのは必至なのでした。かくして、聖書を文字通りの意味で信じていない自称キリスト者が増殖してしまうのです。

 ところで、現代人にたいして“奇跡”が示されない理由にはなにかあるのでしょう。
 ひとつには、「見ないで信じる」ことがものすごく難しくなっているからだと思われます。“見たこと”“聴いたこと”だけに依存し、わけてもテレビで言っ ているからというだけの現実認識しかできなくなってしまったのが現代人の姿です。そゆえに、役者やお笑い芸人と呼ばれる人たちのなかにさえ、“知恵”を求 めてしまうのです。
 聖書を信じるとは荒唐無稽な空想を受け入れるというのではなく、“現実認識”に深くかかわります。聖書を紐解くとき、現実をどのように把握するかという 課題のなかで、最も優れた道に足を踏み入れているということになります。
 礼拝の説教のなかで聖書から、神が私たちにたいしてどのような「現実認識」を求めておられるのかが伺われず、「人生論」や「マニュアル」のように解説さ れるとしたら、信仰が内実を失うのは必然ともいえます。聖書はクリスチャンだけのものではないのですが、いかなる背景があるのにせよ、文字通りの意味から 学べなくなり、信仰に基づいた現実認識ができない“意味論的無神論”が跋扈することにより、教会も空洞化します。なにも人生訓など教会で聴かなくても世に 数多、いたるところに満ちています。
 蛇足ですが、先日、通りがけ、お寺の「宣伝文句」に「笑顔に優る化粧なし」と書かれていて、うまいこと言うぁと感心しました。どんな化粧も“笑顔”には 叶うまいとな・・・。納得です。いえ、聖書には、箴言を筆頭に、わたしたちにとって人生訓とされる箇所は山ほどあります。
 聖書によって与えられているのは、それが派生効果にしかすぎないとはいえ「現実をどのように把握するか」ということであり、キリストにあって与えられる “現実認識”こそが、もともと人に与えられている賜物だからです。
 「疲れた魂が癒されるための唯一の生きた霊的水」がここにあります。

 ところで、80年代に米国でヒットしたシカゴのナンバーに「いったい現実を把握しているものはいるのか」(原題は Does Anybody Really Know What Time It Is? いったい今がどんな時代なのか知っているものがいるのか)があり、当時高校生だったわたしは、まるで哲学的な問いのように読める曲をききながら 「それは聖書のなかにある」と確信を与えられていました。
 とうじ通っていた教会がホーリネス系のプロテスタント教会であり、「聖と俗の分離」に悩まされていたとき、ドストエフスキーによって信仰が復活した時期 にあたります。メソジスト教会から引きずっていた、聖書を読むときの“聖俗分離問題”が根本的に解消したのは、宇田進先生との出会いが決定的でした。
 バッハしか音楽でないと言っていたのを耳にした悪友がロックのシカゴの大ファンで、あるときオーディオセットの前にわたしを座らせ、シカゴのレコードを 全曲聴かせてくれたのです。いやはや雑音みたいにしかきこえないロック音楽がショックでしたが、かえってバッハのすばらしさを再認識しましたね。
 それでも、この年になってシカゴをききなおすと、あの頃軽蔑していたにもかかわらず、その音楽性の豊かさに気づきます。
 わたしが内面でも幅ができて“成長”したからなのかもしれません。