Tokyo 12月17日(月)
         
 兄弟姉妹の確執があるとか、牧師の説教が魂に入ってこないとか、長老が気に入らないなど、教会に行かなくなる理由はいろいろありそうです。カトリックのばあい、教会に出席して聖餐にあずかることが「救い」にかかわる事柄として扱われているため、なにがなんでも教会に所属し、取りすがろうとするのですが、プロテスタントの救済論は、キリストのみ業で完結しているため、人がどのように生き方もしくはどのように生きなかったかという“勤務評定”みたいな評価とひきかえに、条件が課されていると理解していないため、地上の教会を相対的にみてしまう傾向があるのは否めないのでした。
 聖書を読むとき、「教会にいかなければ救いはない」とは教えられていないとしても、信徒の信仰や信仰の成長は教会生活と密接に関係しているのであり、とくに訓練という意味であれば、訓練はすべてが教会の兄弟姉妹との交わりや活動のなかでおこなわれるのであり、キリストの救済が適応される範囲という意味で厳密には(ルカ福音書のラザロの記事や“胎児の救い”などを考慮すると)「教会の外に救いなし」とまではいわないものの、教会の中にしか訓練や霊的成長がないとするなら、地上での信仰生活はみえる教会生活と絶対に分かったり分離したりできないのであり「救いは見える教会のなかある」といわれるべきだと考えます。
 宣教活動も、個人伝道とかいわれますが、これさえ、地域の教会との密接な関係というコンテキストで語られるべきでしょう。
 教会との繋がりとか、もっといえば、教会が人を招くというとき、“聖餐式の席に人を招く”のであり、洗礼を受けるように勧めるのは、未信者にとっても見える目標とされるように配剤されているとみるべきでしょう。

(1) 「キリストの体なる教会を愛さない」ことは「キリストを愛さない」ことと同じ。「キリストを愛しているが教会を愛せない」というのは意味の上で、矛盾しています。
(2)見える教会を拒否するところに、信仰の成長はありません。
 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。 (ヨハネの手紙第一 4章20節)
(3)宣教活動は、教会によっておこなわれるべきであり、宣教師の活動も外国での活動であったとしても、教会による宣教活動のバリエーションとしておこなわれるべきです。個人伝道は賜物ではありますが、何を目的に個人伝道するかが大切。教会に招くという要が欠落した個人伝道は自己満足に陥る危険性があります。
(4)聖礼典(洗礼式と聖餐式)は、弱いわたしたちの信仰が強められ、救いを一層確信づけられるための恵み手段です。洗礼を受けたから救われるのでも、聖餐にあずからないと救われないのでもありません。ただの“儀式”やメモリアルではなく、主の創造と摂理のみ業がそこにおこなわれる一環として扱われるべきです。幼児洗礼を受けることによる祝福や、聖餐にあずかることによる祝福もあきらかに存在します。蛇足ですが、「按手を受けることなく、信徒になれば誰でも、他の人に洗礼を授けたり聖餐式を司式できる」というのは伝統的な教会の立場から逸脱した異端に属するといえます。