Tokyo 12月16日(日)
         
 教え る喜びを知っている教師は幸いです。
 おそらく「人を教え育てる賜物」ともいうべきなのでしょう。しかし、もしかして、聖書をひらくとき「人を教えるために読む」のだとしたら、大きな落とし 穴があると考えます。「この箇所は、あの人にこそふさわい、あの人に聴かせたい」とか。
 聖書は、人に感動を与えるための“道具”ではありません。もちろん“感動を与えられなければ「信仰」と呼べないというのも、近代人に生み出された新種の 異端の種になるのだと考えます。聖書のなかに感動の種を探し求めるとき、「自分が納得でたところだけで聖書がわかったつもりになる」という罠があります。
 そして、説教者の誘惑は、学校での講義のように“聖書をひらく”ところにあります。そして「良い説教をしたい」というのも健全さの殻がみえますが、内側 は“嫉妬”や“競争心”“上から目線”が隠れていたりもするのです。
 いったい聖書が人に求めている「ほんらいの聖書の読み方」が身に付くまで、どれだけの時間が必要なのでしょう。
 聖書がどのように語られるかというのは、信徒が育てられるとき、期せずして「聖書をどのように読むか」の模範となるために、非常に重要です。
 とうぜん個人差があるでしょう。学校教育を経た現代人が聖書を読むときは、きっと「教科書」のようにしか読めなくなっているかもしれません。信じてすぐ に聖書が求めている“聖書の読み方”が悟れるひとは幸いです。わたしは、聖書と正面からむきあえるようになるまでに、とても長い時間がかかりました。まし て説 教ともなれば、まだまだ先があり、未完成だと自覚しています。
 少年の頃から聖書をよみはじめたのですが、理解できた箇所より、なんど読み返してもわからない箇所のほうが多かったからです。そこで勝手な空想に走らな かったのは幸いだったのではないかと思います。神がおられることと、神が聖書を通じて人に語っておられるということ。聖霊が今も働く方であり、聖書の意味 を悟らせていただけるのであり、聖書は、聖霊がなにを語ろうとしておられるのかに聴くところからはじめられ、説教者の基本として、やはり原語による“釈 義”の作業を徹底しておこない、聖書記者が何を伝えたいのだろうかと探し求める。聖霊が語るように示されたところ聖霊が求めておられるところを超えない。 しかし、聖書は「書かれていることを超えないことを学ぶように」(第一コリント4:6)と教られています。つまり、内示された心の“感動”に基づくのでは なく、聖書に書かれていることから引き出されるのがメッセージだというのでした。 テーマや語り方・表現まで、細かく吟味した上で語る。
 聖書釈義が弱い説教は、「自分の考えを聖書に読み込む」傾向が強くなると思われます。聖霊が聖書を通じて、どれだけ人の魂を取り扱うようにされているの か理解できるメッセージを受ける聴衆は幸いです。

 じつは、わたしには、少年の頃、不慮の出来事で、弟に重度の火傷を与えてしまったというトラウマ障害があったため、語っている途中ことばが出なくなり、 ついには非常に早口になるなど、説教者にはふさわしくありませんでした。
 途中で明確に発音できなくなるという“障害”まで伴いパニックにさえ陥るという時期さえあったのです。
 それゆえ、一度も自分が雄弁だとか思ったことがありません。
 完全に「聖霊の働きに委ねる」、いやそのように矯正されて今に至っていると考えます。
 一度も「うまく語れた」などと満足を覚えたことはありません。
 ただ、聖書メッセージを信徒のみなさまと分かち合うなかで、自分も同じ恵みに預かりたいという強い願いはいつもあります。 

Como lliva una estrella(星の涙)
 ギター曲をいくつか聴いていたのですが、心に留まる曲がありました。ベネズエラのとてもロマンチックな曲。ギターの魅力は、ギターでしか表現できない情 感豊かな表現でしょう。ネットで楽譜も手に入れたので、いつかギターで演奏できるようになりたいと思います。
 J・ウイリアムズによるオードックスな演奏は以下。
https://www.youtube.com/watch?v=Jt9pLeEoDRQ