Tokyo 12月15日(土)
         
 主 のみ前に出て、「自分はこれだけの能力が与えられているので、どうぞ用いてください」という場面があったとしたら、すごく積極的でいいのではない か・・・、信仰が自発的な意志を伴っているのだから、むしろ模範としなさいみたいないいかたにいつも違和感を覚えます。
  総じて、自分が優れているとか役に立つとか他人に吹聴したり自慢したりする人のなかに、ほんとうに優れた人を捜すのは困難です。むしろ
「人 が褒めたいなら、勝手に褒めさせておいたらいい」という感想をもつのではないでしょうか。
 いえ、なに も職人の世界に限らず、いろいろな分野についても、ほんとうにできる人は、他人に自分をさらけ出すようなまねはしません。「能ある鷹は爪を隠す」というこ とわざがありますが、あれば、自分の能力にどれほど自信があってもほんとうに優れた人は、他人にそれを知らせないという意味なのですが、聖書を読むとき、 弟子たちにみられるのは、「図らずもそうなった」とか、どうかすると「不本意ながら」というのがほとんどなのではないでしょうか。
 「主に用られたい」と願い、そして「用いてください」と願った結果、主の大きな業をおこなった弟子は聖書のなかに見いだすことはできません。
 自分を賛美し、自己礼賛する人にろくな輩はいません。どの世界でもそうなのですが、キリストの弟子として召されるとは、そのようなものであり、ただの謙 虚とか、敵に対して甘いところをみせないとかの戦略でもなく、主の心に従って召された人々は、ひたすら主のご栄光だけを見上げ、主の名に依存できるよう に、つまり、パウロがコリント書で言っているように、主のまえで誰も誇らせないために、そのように人を召し上げ、訓練としてさまざな試練を与えておられる のではないでしょうか。
 積極的に発言する子どもの点数が高いとかいわれますが、それは教師と学生・生徒との間だけのことであり、わたしも人を教えたことがあるのですが、子ども がもっている能力とか、潜在能力とかいうのでしょうが、人が理解できるところと、人の理解を超えているところがあります。人が人の能力を“査定”するとい う場面は、会社組織でもみられるので、ある程度は可能なのでしょう。けれども、人の評価能力とは、自分が利用できるかどうかだけであり、人がもっている能 力のほんとうの姿を知っている“教師”はごく希なのでしょう。
 とうぜん、人は神ではないからです。
 けれども、主のなさることは、ご自分にとって有利かどうか。それだけです。ご自分が召し出して賜物を与えているにもかかわらず、最終的に受けた賞賛や栄 誉を全部自分のものであるかのように言い出したとしたら、主が不快に思われるに違いないでしょうね。
 だから、主はあえて、人の目には愚かだったり無能だったり、なにも持っていないような人を用いられ、ご自分の栄光を他のなにものにも与えないお方なのだ と考えます。
 どれほど「地上の富」に恵まれていたとしても、だから主に用いられるとは限りません。
 日本のいわゆる「福音主義教会」が、どれだけ世の評判というものに弱いかを思わされます。人々の注目を、世の評判でひきとめておいたあと、キリストへ の畏敬に繋がるなどということはありえません。「神と富とに兼ね仕えることはできない」とされているのではないでしょうか。
 自己推薦するような者を主が用いられることは決してないというのが、今に至るまでここに生きてきた、いちキリスト信徒の確信です。