Tokyo 12月13日(木)
         
 マノアは、サムソンの母。天使があらわれて、「葡萄の実からなるアルコール類」 をいっさい飲んではならないと告げられ、生まれ出る子が聖別された「ナジル人」であるというのがその理由でした。“妊婦がアルコール類を摂取すると、胎児 に悪影響がある”というのは、現代の科学的な常識とされます。聖書解釈という意味で、天使がマノアにアルコール摂取を禁じたのは、生まれ出る子が生まれな がらのナジル人だったからであり、「妊婦にとってアルコール摂取が胎児に良くない」からではありません。それは聖書解釈上の方法論に拘るからであり、妊婦 のアルコール摂取の危険性が近代になったあきらかになっているのは喜ばしいことなのだと考えます。子どもたちや妊婦がアルコールを摂取することの危険性が 周知されるのは歓迎されなければなりません。妊婦のアルコール摂取が有害であることは論を待たないからです。

 ところが聖書を解釈する上で、科学的な定説の根拠を聖書に求めるとき、すでにある結論を“聖書に読み込む”つまり、自分の言いたいことを聖書のなかに捜 すようなことをはじめると、思てか思わないでか、予想していない本末転倒が引き起こされます。
 聖書のなかに自分の言いたいことを捜すというのは、信徒や教職を問わず、誰にでも引き起こされるのであり、「自分の言いたいことを言ってもらうための教 師を周囲に侍らせる」という、・・・いつも卑近な例で恐縮ですがアベさんみたいな堕落した生き方が生まれます。
 実存主義という哲学用語は、哲学の脈絡では何を言っているか不可解になるのですが、聖書が今のわたしに何を語るのかではなく、わたしが言いたいことや考 えていることに共鳴する箇所を聖書に探し始めるとき、実存主義的人生観と全く同じ現象が引き起こされるのです。
 聖書に虚心になって聴き従う心があれば、おそらく熱心になって原語を学ぼうとするでしょう。先入観のようなものをひとまずゼロにして、聖書が何を語って いるのかに耳を傾けるところから、聖書が読まれたとき、聖霊が働き、「求めなさい、そうしたら与えられます」とあるとおり、きっと意味を悟らせていただけ るでしょう。

 聖書に生きるための知恵を求めたなら、入門の段階に入られているのかもしれません。母も子どもの教育の上でいいからと聖書を読ませてようとしました。し かし、あるとき、子どもが信仰の世界に入り始めると、自分の意図したことと別の方向に向かうと感じて、一時信仰に反対したことがあります。母が信仰が弱く された時期だったとは思いますが、当初、聖書にたいして“教育効果”だけを期待していたからだといえます。
 西欧文明の要として、聖書を学ぶように言われるのは好ましいのです。ミッションスクールでもそのように教えられるかもしれませんが、聖書を自分の許容範 囲でしか読めないのだとしたら、成長が幼い信仰のまま止まってしまうのでした。
 「あえて、聖書にブラインドが掛けられるように遠ざけさせる」ということがあったとしたら、主は、あなたが聖書を真摯な心で読めるようになるまで、つま り、あなたが整えられるまで、事実上聖書を読むのを禁じられていたからなのではないでしょうか。
 聖書には、やがて時がきたら、意味があきらかにされるような箇所はすごく多いのです。その意味で、「聖書についてなんでもわかっている」かのようなたた ずまいをして学者風をふかせている輩を信用してはなりません。