Tokyo 12月12日(水)
         
 死のときを迎えたキリスト者のこと

 思い起こすと、それほど長い人生の経験ではありませんが、わたしが知っている限りでも、キリストを信じた人が死の時を迎えようとする場面がいくつかあり ました。ある人は、病気になるとかではないかったのですが、人生の終盤になり、すべての財産を“お金にかえて、福祉施設に捧げて自分たちは”老人ホーム” に入りました。自分たちの居場所は地上にないのだから、地上に何も残さなくていいという生き方でした。
 ある老母は、「葬式の細かな指示」を伝えるためにわたしを呼び、自分の葬式のための聖書や賛美歌などの内容をこうしてほしいと伝えてくれました。この方 も病があって死期を悟っていたわけではありません。ただ、自分がどこに行くのか完全な確信を得ておられ、天国に行くことを心から楽しみにしておられまし た。およそ、1か月後、わたしは司式者として葬式に臨み、キリストにある生涯の勝利とはこのようなものだという確信を深めました。
 キリストにある死には、どんな場合でも不安や恐怖は伴わないというのが、わたしの“経験則”です。父も50代後半にキリスト者となったのですが、子ども や孫たちに囲まれて写真をとったことがあり、そのときも、感じたのは“死のあとにみえる天国を心待ちにしている”という姿でした。母は病に倒れ死の時まで ベッドから起き上がることはできませんでした。
 母の最期は、わたしからみても決して「楽な死期」ではなかったものの、「天国にはどんな花が咲いていのだろうねぇ」とか語っていたのであり、もし信仰が ない人がこれをきいたなら、それこそ“ただのなぐさみものの夢物語”でおわってしまうところでしょうけれど、母の天国についての“期待度”はすごくリアル だったのであり、肉体は苦しみのなかにあったとしても心は深い平安に包まれていたのです。
 主はわたしに実に幸いな「神学校での学び」を与えてくださいましたが、今も現役で活躍されている教師もおられ、しかしすでに天に召された教師も数名思い 出されるのですが、3年の学びのあいだ、いつおめにかかっても、どのような授業を受けても、“天国に招かれることの期待と喜び”に満ちておられたのを思い起 こします。
 聖書に「死後の平安の秘訣」あるなどいいはじめたら、おそらく人は罪深く自己中心的なので、芥川の「くもの糸」で描かれたように、人を蹴落としても自分 だけは天国にという考えにとらわれるようになるかもしれないですが、ほんとうに主に心をとらえられているなら、自分の死をそのように受け止めることはない のです。魂がキリストに満たされているなら、愛と平安に包まれて死のときを迎えるからです。
 学歴、職歴、家柄、財産、年齢、国籍にかわらず、そこに入るためのパスポートはただ一つ、キリストを自分の主である神として受け入れるかどうか。実にシ ンプルであり、ところが同時に、世の金持ちたちにとって「入るにはラクダが針の孔を通より難しい」とされるのです。金持ちだから天国に入れない・・・とか、貧乏人だから天国に行ける・・・というのも間違いであるにもかかわらず。