Tokyo 12月11日(火)
         
 そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょ にいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来る ことができません。」 そこで、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散して いる人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。  『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない。』また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味 だろうか。」(ヨハネ福音書7:33〜36)

 主イエスさまの誕生について、聖書の記事がいたるところで紹介される時期になっています。
 たとえばあなたは処女降誕や天使の告知をどのように受け止めますか。
 おそらく大半は“子どもだましの作りばなし”として納得してしまうかもしれません。主が「わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」と語 られたとき、どんな意味なのかあれこれ考えるというのは、信じる前の大切な通過点なのでしょう。
 主のことばを聞いたときの最初の反応は、「どういうことか」と考えたあと、いわゆるユダヤの歴史のなかで各地に離散しているディアスポラユダヤ人への伝 道のことなのかもしれないと考えたようです。
 聖書の記事に接して、わたしたちのなかに存在する“判断基準”が動き出します。それは“経験した過去”とか“経験則から導き出される知識”です。処女降 誕や天使の告知を“荒唐無稽”と一蹴するばあいも同じで、経験則や“常識”からみたら、作り話でしかありえないからです。
 “現代人は聖書を受け入れない”というとき、聖書の時代の人々のそのときの受け止め方とと少しも変化していません。
 処女降誕というのはただマリアにたいしてだけされた事実であり、天使を見たり、天使の話をきいたりというのも、聖書の記事以外に見ることはできません。 経験したことのない事実や、まだ知らない事柄は、聖書ばかりでなく、世に満ちあふれています。そのひとつひとつについて“荒唐無稽”と断定できるだけの “調査”もしないはずです。いえ、理屈の上だけですが、「これは荒唐無稽ではない」といったその人の信憑性を問題にしなければならなくなるでしょう。詐欺 師など、世に腐るほどいるからです。 
 聖書に常識では理解できないことや、解釈ができない記事があるなら、“これはどういう意味だろう”と思案するようになっていたら幸いです。わたしたち が見たり聞いたり、本の上で学べる知識は「経験則」にしか過ぎません。限界に閉じこめられているといってもいいでしょう。信仰とはそこから先の段階であり、見えない事実を事実として受け入れることなのです。「天使などいない」のではなく、ただ見たことがないといえるだけです。人は天使の実在性を限られた経験則からだけでは理解できないからです。
 あえて、人はいつ死の時を迎えるのか、正確に知っている人は誰もいません。しかし、世に生まれたキリストは、ご自分の生涯の意味と、そして死の時をご存 じでした。あざ笑うことなどせずに「これはどういう意味だろう」と立ち止まり、キリスト誕生が世界でお祝いされている意味を考えはじめるのだとしたら、ク リスマスはただの喧噪だけではなく、大切な用いられ方をしているのかもしれません。

 説教者の誘惑。・・・誘惑というほどではありませんが、どこかで説教をした原稿をつかうほうが、「気が楽」と思うことがときどきあります。同じ説教をし ても、聴く人が違うならいいではないかと。“おはこ”の説教を使い回ししたところで何の問題があろうかと。ひとつの箇所について、原語やコメンタリーをさ んざん調べ尽くしているのであれば、何をいまさら“新しい意味”を捜す必要があろうかと。
 説教者の大きな問題は、上から目線となることでしょう。「教える立場」にたち、「教えられる人々」を目の前にするのです。
 けれども、さらに大きな誘惑は「これはいったいどんな意味だろう」という心を失うことです。「感動する心」を探し求めるというのではありません。 
 自分の心に尋ねて、「自分の心に感動を覚える箇所」をさがしはじめたあげく、かつて感動をもって聴いた説教の“真似”をする。それはわたしにとっては最 悪の状態です。
 説教者の魂が主から取り扱われていない説教が、どうして聴く人々の魂を取り扱うことができるでしょう。
 聖書の新しい意味を知らされ、そして信徒の一人として取り扱われたとき、そのみことばは「魂に書き記される」のです。
 魂に書き記される説教をするためには、以前書いた原稿を書き直すだけではだめであり、その日、その聴衆のためにではなくまず自分のために原稿はゼロから まったく新しく書きおろされなければなりません。