Tokyo 12月08(土)
         

この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くの ではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。(テモテへの手紙一 6章17節)

 キリスト者の生き方は、人生の目標をまだ見てない天の都に目標を定めているのだから、はかない世に心を留めることなく、いや、できれば“世を捨てて”修道院にでも入って、“お迎え”が来るまで、罪から離れてくらすべきだというカトリック教にみられる世俗への態度があります。
 ヘブル人への手紙にあるように、ひたすら世を“仮の住まい”であるとみて、禁欲的に生きることが本来のありかたであり、富や蓄財に魂を奪われてはならな いのだとしたら、神が世に生きるクリスチャンのために、“楽しみ”を与えず、世のすべてを、たとえ一部であれ“楽しみ”として受けるのは“キリスト者とし て軌を逸した行動”であると、おそらく現代にいたるところに復活しているとみられるパリサイ主義者は、そう言うに違いありません。
 創造のとき、アダムにたいして与えられた動物や植物は、アダムにとって楽しみとされるように与えられました。そして妻として与えられたイブもアダムに とって最高の喜びとされました。天国をめざすキリスト者は、すべての楽しみについて耽溺したり、世と同調したような“楽しみ方”を避け、なににおいても控 えめであるのが望ましいとしても、神は、人を楽しませ、喜ばせるために、酒をふくめた食物を与え、動植物を与え、地球環境を整え、そして「人がひとりでい るのは良くない」として妻を与えられます。 
 「飲食を楽しむ」とか「妻との時間を楽しむ」とかナンセンスだとか見下して、この世は“仮住まい”であり、さらには結婚すら永遠のものではなく、天国においては婚 姻関係が存在しないのだとしても、世に満ちている楽しみを、ただ世がもたらす堕落の象徴とだけしかみることができないとしたら、主のお考えからかなり的はずれとなってしまうと考えます。神は、堕落後の世界である今日においてすら、いろいろな事を通じて、たくさんの楽しみを世にある信徒にも与えておられるからです。
 「酒」のもたらす危険は当然聖書に教えられています。そして酒は犯罪のトリガーになったり人生を狂わせたりする原因であり、罪の背景にいつも“女”がか らむのは世の常でしょう。いわゆる性産業について、それがどれほど“世の人気”があろうとも、ソドムにたいして示された主の心がきわめて厳しかったよう に、キリスト者のコミニティにおいて、徹底して排斥されなければならないと考えます。そして「未婚であるなら結外交渉が許される」というのも神の心にかな いません。妻や夫がありながら、他の女性や男性に心を奪われるのも許されていないのであり、キリスト者にとって超えてはならない一線は見えないけれども非 常に明確であるとわたしは考えます。
 それでも、若い信徒の男女に“恋愛禁止”を宣言するクリスチャンのコミニティがあり、あるグループは「男女席を同じうするなかれ」とばかり、恋愛は御法 度どころか、男女の同席さえ禁じ男女別の席を用意しました。いえ、キリストの名を標榜した教会についてのはなしです。イスラム圏ではありません。イスラム 圏では「男女別の結婚式」がおこなわれ、酒類は全部禁止、製造も飲酒も販売もすべて禁止。そして男女が同じ場所にいることを許されないのですが、これとお なじことが「キリスト信仰」の名のもとにおこなわれていることになり、主の教えをはき違えて、現代風の律法主義に陥っているとみられます。
 当然、青年たちへの「恋愛講座」はとても大切であり、男女交際のありかたをいつも教えられるべきでしょう。
 カナの婚礼で、水を上質のワインに変化させ、祝いの場に“華”を添えられたのは、主キリストです。主は“夫婦の寝床”を尊ばれ、祝福し、祝いのしるしと して酒を振るまわれました。(それは「上質のワイン」であり、「グレープジュース」ではありませんでした。)

 賢く美しい良妻に恵まれた男性は幸いです。それは主からの賜物です。妻との時間を楽しみましょう。
 でも、もしご自分の妻のことを他人に自慢したくなったとしたら、コリント書にある「今 からは、妻のある者は、妻のない者のようにしていなさい。 泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のようにしていなさい。世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。 この世の有様は過ぎ去るからです。」とあるところに心を留めたいのです。
 そして、酒をふくめた食物は、主からの賜物として与えられました。
 お金や酒を含めた食物に心を奪われたとしたら、せっかく人を楽しませるために恵みとして与えられたにもかかわらず、あなたのなかに生まれた「主より大切 なもの」にたいして、嫉妬の心をもたれるのでしょう。
 主が「人のように嫉妬心をもつ」というのはやや逸脱した言い方なのかもしれません。ヤコブ書の表現は比喩的表現。ですが、主がご自分の最愛の子どもを与 えるほど愛されたのに、あなたが世のなにかに心奪われることなどがあったら、激しく心騒がせ、なんとしてでもご自分の方をむくようにと願われるでしょう。 サムソンは、視力を含めて自分に属しているものが全部失われはじめて、ただ主だけを頼りにできたとき「信仰の人」と呼ばれました。人の生きる目的は“世の 楽しみ”ではなく、神を喜ぶことであり、あなたが「神との時間」を楽しみにしておられるなら幸いです。
 「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」