Tokyo 12月03日(月)
         
 聖書を言語(旧約はヘブル語、新約やギリシヤ語)で読み解く意味はどこにあるのでしょう。
 翻訳された日本語聖書しかつなわない主義の説教者についていえば、日本語聖書が原語からどのように日本語にしたか一切を不問として、聖書を紐解くという意味になります。聖書が霊感された書物であるというとき、それは、翻訳された言語ではなく、原文としてのヘブル語やギリシヤ語について霊感されているという意味であり、聖書記者は、それぞれの言語の特質をふまえた上で、文章として表現をしているという意味であり、ピラトが語った“真理”=arehseth には、あえて冠詞がつけられなかったのにも意味が込められていると理解すべきであり、文章をつくるとき“冠詞”という概念をもたない日本語においては、言語についての説明が必要です。
 聖書記者が、ギリシヤ語の性質(syntax)をふまえた上で、表現していて、なお、日本語に反映されていないときには、説教者やメッセンジャーによって解説されなければならない場面があります。
 聖書が何を言っているのかを無視して、時局的な要求だけによって、聖書のメッセージを適応させようとするのは、体よくいえばこじつけであり、有り体にいえば、冒涜以外のなにものでもありません。
 説教準備が、非常に浅薄であるとあかるみにされたとしても、特別な神学的訓練を受けた人以外、おそらく一般信徒であれば、聖書のメッセージを無視した適応を受けたとしてもそのまま受け入れるに違いありません。
 ただ、それによって引き起こされるひとつの困難は、語らずともこれによって「聖書の読み方」が伝えられたことになるのでした。つまり、聖書は、聖書自身が何にを語るかを無視してもいいのであり、自分の聴きたい内容にあわせて聖書を解釈していいという意味だからです。
 説教者には大きな責任が伴います。
 世においては、どんなメディアからも書物からも聴くことができないメッセージが語られるべきだからであり、「福音の愚かさによって信じる人々を救おう」というのが主のみ心だとされているからです。
 必死になって説教は準備されなければなりません。
 とりわけ、原語の釈義はものすごく大切です。それなしに、説教に臨むのは不可能だとわたしは思います。
 しかし、最後には、聖霊が語ろうとするところを語らせていただけるというところで、落としどころも見いだします。
 「自分の説教は最高だ」とか、芸術作品だとか、自己満足に陥ったらそれこそ最悪です。