Tokyo 12月02日(日)
         
 
 プラグマチズム(実利主義)というのは、たとえばお金に換算できないことしか聴けないという独自のフィルターでものごとを受け止めるわけで、聖書解釈にも忍び込んでいる現代の“見えない化け物”であるに違いありません。
 もともとは、「聖書はすべての規範」であるという切り口から入るのかもしれませんが、経済学しかり、経営学、そして政治学に至るまで聖書をそのような人の創り出した学問の教科書のようにみてしまうとき、聖書を開く最初の切り口さえ、自分なりのフィルターでみてしまうことから、聖書からほんとうに聴かなければならないメッセージを聴けなくなるという誤りが生まれます。
 経済学は、人の経験値や経験や知識に基づいた未来予測をするのでしょう。しかし、聖書のメッセージは、主が“隠れたところを見ておられ、隠れている事柄にみ心を留め、祝福と呪いの根拠とされる”というところにあります。聖書の視点にたてば、世のなかで有名か無名かは関係ありません。人の目に留まる留まらないかも無関係です。どのような社会的地位にあるか、たくさんの人に知られているか知られていなかは、主から受け入れらているかどうかの基準にはなりません。すべての罪はキリストの代償的な死とひきかえに許され、復活の力と光栄を受けることができるのですが、悔い改めないままなんの裁きも受けないですむという罪はありません。そして聖書によれば、永遠の定罪も存在しているのであり、「信じても信じなくても万人が救われる」のではありません。
 世間のニュースでさえ、知らされていない事柄のほうが多いでしょう。
 けれども、主の目は、隠れたところに注がれているのでした。
 多額の献金をしたお金持ちに比べ、わずかレプタ2枚だけを献げた女に、主の心が注がれていました。
 毎日優雅に遊び暮らしていて、死のあと地獄に送られた金持ちに比べて、死んだ後、天国に招かれた“乞食”のラザロについて、生きているときに心を留めた人は、主以外誰一人いなかったでしょう。
 聖書は、そのような“隠れてることをすべて見ておられる主”の心を紐解くものです。
 わたしたちが見聞きできる話題のなかで、これがいかに大切なメッセージであることでしょう。巷に溢れる情報や活字、活劇に動画からこのようなメッセージを聴くことはできないからです。魂の乾きを癒せるのは聖書のメッセージだけです。これに枯渇したら、他の何ものをも代替することはできません。
 そのような視点を無視した“聖書を教科書のようにしか扱えない”メッセージには人の魂を養ったり人生を訓練したりする力はありません。